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粟津征二郎の紀行エッセイ

2017-08-12

第138回  琵琶湖周航の歌100周年 波をまくらにルーツを訪ねる旅

  夏は琵琶湖。役所は移動の季節だ。おじさんたちが転勤のたびに歌うのが〽志賀の都よいざさらばーの琵琶湖周航の歌だ。私も2回の大津勤務でこの歌に送られ、しみじみとした気分に浸った思い出がある。

  若者よりもおじさん、おばさん好みの歌ながら、昨今は役所の退庁音楽にもなり、いまやご当地ソングの代表である。三高のボート部員に歌い継がれてきた周航の歌が今年、100周年を迎え、イベントが各地で組まれている。周航の歌碑を訪ねる観光客の姿を目にする。

  大津市井寺西の琵琶湖疎水水口はレンガづくりの明治の建築である。三保が堰の名があり、湖岸を掘り下げてあるから、船が艇庫にはいりやすく、大学、高校のボー ト部の艇庫が並んでいた。現在は瀬田川沿いに艇庫は移動し、ふるぼけた艇庫が往時の姿をとどめている。道路近くの空き地に「われは湖の子」の碑が立ち、琵 琶湖周航の歌発祥の地と刻まれている。

     <写真1>

  大正デモクラシー の末期、ロシア革命第一次大戦勃発の100年前、1917年6月27日、旧制第三高等学校水上部(ボート部)のフィックス艇が早朝の琵琶湖へ漕ぎだし た。漕手6人、舵手1人の7人乗り。カッターをレース様に細身に改良し、スピードがでた。この日、ボートは琵琶湖西周りで周航、4日がかりの遠漕になる。 琵琶湖一周は陸上で180キロ叩湖上なら120キロ余の距離であるが、風や波の関係で時間のロスがり、漕ぐスピードもゆっくりのため、初日は雄松が浜 (近江舞子)、2日目は今津泊。今津は福井県境の若狭に隣接、冬は日本海の雪雲が流れ、積雪1辰歪舛靴ない。3日目は琵琶湖の北を経て伊吹山を仰ぐ長浜彦根。4日目は彦根を南下して近江八幡長命寺泊の無理のない日程を組んでいる。三高恒例の行事は、その後も京大に引き継がれ、70年代まで続いた。

  2日目の6月28日夜。漕手の小口太郎がみんな聞いてくれと、詩を披露した。これが周航の歌の誕生の瞬間になる。小口は信州から三高二部(理科)に入学、旧制中学でも諏訪湖でボートに親しみ、6人の漕手の要であった。この夜、1番と2番までしかできていなかった。6番までの歌詞が完成は秋になる。この詩に当時、学生に親しまれた「ひつじぐさ」のメロデーで歌うようになり、ボート部員の愛唱歌に育った。

  小口は今津から友 人宛にハガキを出し、ハガキの日付、消印は6月28日であることから周航の歌発祥の日になった。さらに参加クルーのひとりの証言により、周航の歌発祥の地 は今津も認知された。ただ作曲も小口によるものと長らく伝わり、作曲者の吉田千秋の名前までわかるのはずっと後のことである。

  それでは周航の歌の6番まで紹介する。カラオケやレコードは3番で終わり、彦根近江八幡竹生島は落ちていたから、地元でも3番で終わりと思う県民も多かった。

  1番 〽 われは湖の子さすらいの 旅にしあればしみじみと

       のぼる狭霧やさざ波の 志賀の都よいざさらば

  2番   松は緑の砂白き 雄松が里の乙女子は

       赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや

  3番   浪のまにまに漂えば 赤い泊まり火なつかしみ

       行方定めぬ浪まくら 今日は今津か長浜

  4番   瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの竹生島

       ほとけの御手にいだかれて ねむれ乙女子やすらけく

  5番   矢の根は深く埋もれて 夏草しげき 堀のあと

       古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと

  6番   西国十番長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)

       遠くさりて

       黄金の波にいざゆかん 語れわが友 熱き心

  1、 2 番は即興の趣があり、4番以降はやや歴史や宗教性をおびている。雄松が里の乙女子は周航の途中、手を振った村の娘がモデルか。4番のねむれ乙女子は竹生島 伝説からの引用だろう。伊吹の神と浅井岳の姫神が高さを競い、負けた伊吹の神が姫神の首を切り落とし、琵琶湖に落ちた首が竹生島になった神話をもとに創作 したのか。5,6番はカラオケにはなく、まず歌うのはボート仲間か地元しかいない。長命寺西国三十三番札所ながら6番歌詞では十番になっている。33番は語呂も悪いと10番にしたようだ。しかし、哀調おびた歌のラストを熱き心で締めているのは、味わい深い。

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  周航の歌とよく間違われるのが「琵琶湖哀歌」。日米開戦の前、周航に出発した金沢の第四高等学校ボートが今津・高島沖で遭難、全員死亡した。レコード 会社が話題になった遭難にちなみ、東海林太郎の歌で吹き込んだ。メロデイが似ていて、周航の歌と哀歌がしばしば混同された。

  周航の歌が全国に広がったのは1971年の加藤登紀子のレコードからだ。それ以前にもボニージャックス、フランク永井、ペギー葉山、小林旭、意外にも都はるみもレコードインしているが、ヒットしていない。

  加藤登紀子は学生運動で獄中にいた恋人藤本敏夫(結婚後死亡)が好んで歌ったことから、吹き込み、70万枚の大ヒットになった。大学紛争、70年安保後 の世相の波に乗り、知床旅情とともに人気を集めた。加藤自身も京大OBから曲や詩について取材し、歌に深みと広がりをもたせた。

  加藤は雑誌か新聞のインタービューでこう語っている。

  「歌を聞いてくださる客席のみなさんの顔にある種の感慨が現れるのですね」

  詩、曲だけ取り上げるなら文句なしと折り紙をつけるのをためらうが、歌にすると不思議な味が出てくる不思議な歌だ。若者たちと琵琶湖が生んだ傑作といえる。

  加藤はコンサート後、英国人から「故郷の歌をありがとう」と、礼をいわれて「ああそうか、イギリス唱歌が原曲」と、曲のルーツを思い起こした。

   作曲者の吉田千秋は新潟県出身。父は著名な地理学者の吉田東伍。子どものころから教会音楽に親しみ、大正4年、雑誌「音楽界」に「ひつじぐさ」を発表し て学生らのしるところになった。しかし、吉田千秋が周航の歌作曲者と認知されるのは最近である。NHK大津放送局アナウンサーの飯田忠義氏らのルーツ取材 で、これまで小口太郎作詞作曲の通説が修正され、作詞小口太郎、作曲吉田千秋と歌詞に書き込まれた。吉田千秋は24歳で早逝し、真相は80年もの間、眠っ ていた。

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  新潟でも100周年の記念行事が開かれ、琵琶湖から離れた地域で周航の歌記念の催しが続いている。

  小口太郎は諏訪湖畔の岡谷生まれである。旧制中学卒業後、三高二部に入学三高から東京帝国大学理科に入学した。通信部門の研究に取り組み、就職した研究所で電信電話に関する特許を取得した。8カ国におよぶ特許は小口の将来を約束した。

  ところが小口は26歳で若死にした。死因は自殺という。理由は親戚の女性との結婚が進まず、悲観しての死。しかし、家族によると、断ったのではなく小口に研 究で大きな成果を期待し、その後に結婚を考えていたらしい。諏訪湖琵琶湖で青春を送った小口にとって社会における人間関係は複雑であったにちがいない。

  諏訪湖畔には京大OBの呼びかけで銅像が建立され、学生帽の小口の前には八ヶ岳諏訪湖が広がっていた。

     

     f:id:awazu-kikou:20170812064058j:image ひつじ

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