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粟津征二郎の紀行エッセイ

2017-10-03

第140回 色づく京の10月は隠れ里水尾

本能寺変の謎解く鍵はここにあり〜

  京都には市内中心部から車で1時間の距離の隠れ里が西、南、北に散在している。北はいうまでもなく北山奥の花脊、広河原、久多。手前に鞍馬、貴船、八瀬、大原。ところが西の愛宕山麓も魅力的な隠れ里がある。水尾。京都駅からJRに乗って秘境駅で降り、とぼとぼとゆく道筋はTVサスペンス劇場ですっかりおなじみだ。

  保津峡駅山陰線 の複線化で駅が移動し、かつての駅は新設のトロッコ駅になった。まだSLが走っていた70年代、誰も降りない駅でタバコを吸い、おもむろ吊橋を渡った秘境 の風情は失われ、いまや観光名所に数えられる。保津川下りの舟が急流を嵐山へむけて舵を巧みに操り、橋からの眺めに興をそえる。

  60年前、金閣寺炎上した。大学生による放火は、三島由紀夫、水上勉の小説の素材になった。舞鶴禅宗寺の実家を離れ大谷大で学ぶ若者の動機は恰好のマスコミの話題を提供した。警察の調べを受けた母親が帰りの山陰線から保津狭へ投身自殺した川の流れ。

宗教を学ぶ若者の苦悩、絶望した母の悲しみを遠く海へ運んでいった。

  鵜飼橋(うごう)の名のある吊橋は長さ50叩高さ60辰△蝓■看前の台風でワイヤーが切れ、長く通行止めになっていた。

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  橋を渡り、水尾の道をゆく。紅葉にはまだ早い。京から丹波への道は現国道9号線の老い坂越えと、明智越えという愛宕山麓の道があり、古くは『続日本紀』に山背国水雄の地名が出てくる。稜線の標高は420叩ここを下ると、水尾の里である。

  山の斜面沿いに民家が並ぶ。石積みの塀のまわりに柚子の木が葉を茂らせ、実がついていた。黄色くなるのは冷え込みごろなので、まだ早い。我が家にも捨てた種 から芽を出した柚子の木が3本あるが、すでに15年以上経つのに実がつかない。まさに桃栗3年、柿8年、柚子は15年以上といわれ、柚子バカとバカにされ た。我が家の木もその仲間で今年こそと楽しみにするが、あてはずれの繰り返しだ。

  水尾の柚子は種から育てた柚子バカで、接ぎ木の柚子に比べて酸味など味が濃いという。

  水尾の柚子の栽培は新しく、もともとは愛宕参道で女たちが樒(しきみ)を販売、そのついでに土産として柚子やビワ、マツタケを並べたのが始まりらしい。いまでは数軒の家が地鶏の水たきと柚子風呂をセットに営業、晩秋の西山名物になっている。

  水尾の歴史は平安朝7代、清和天皇出家して丹波山城の寺をめぐり、水尾を隠棲の地に選んだことに始まる。藤原良房摂関政治天皇に娘を嫁がせ、孫息子 を後継にして実権を握る権力構造になっていた。清和天皇には兄の惟高親王がいて、皇太子になるはずが、母が紀氏の出身のため、強引に出家させられ、9歳の 清和天皇即位した経緯がある

  清和天皇にとって藤原氏をはじめ俗世を離れた地で余生を過ごすことにためらいもなかった。天皇は政治の実権を失っていた。天皇とともに多くの女官らが水尾に すみつき、水尾はみやびな里になった。水尾に伝わる榛の木の煮汁で染めた三幅前垂れは、女官たちが残した袴から変化したものといわれている。

  清和天皇の第六皇子貞純親王清和源氏の祖。清和源氏は21ある源氏の中で武家棟梁ともいわれる名門であり、源頼朝足利尊氏武田信玄徳川家康が代表 各になる。源氏姓は平安朝三代の嵯峨天皇には子女が多く、その解決策として臣籍降下して源性を名乗ったのが始まり。紫式部描く源氏物語の主人公光源氏は嵯 峨源氏の流れの架空の人物ながらモデルは源融など話題に事欠かない。

  明智光秀本能寺の変6日前、水尾の清和天皇陵に参詣、武運を祈ったという。光秀の当時の居城亀山城は現亀岡市に位置し、そこから保津川沿いに水尾に向かった。光秀の家系清和源氏の支流土岐氏の流れのため、愛宕参詣のたびごとに清和天皇陵に参詣、武運長久を祈願した。

  平家一門の織田信長征夷大将軍になれなかった。光秀と信長の確執の根は意外と深いものかもしれない。戦国、下克上の世で源氏の血統にこだわった光秀の信条は、信長に仕える日々の下、膨れ、公家を味方につけ、信長排斥への道を進む。このあたりが秀吉との大きな違いになる。

  明智越えの峰に「峰の堂」と呼ばれる清和天皇ゆかりの寺がある。本尊清和天皇の念持仏といわれ、第六皇子で源氏の祖、貞純親王の宝篋印塔が祀られている。光秀は丹波から13000の兵を3隊に分け、自らは明智越えで水尾にはいり、本能寺目指したという。

  光秀の下克上も10日余の3日天下に終わり、明智越えの「峰の堂」はいつしか無念堂と呼ばれ、ハイキングの名所になった。

  <写真 2>

  水尾名物の柚子ふ ろにつかり、体に柚子の匂いをこすりつけ、またつかる。まさにいい湯だな。ふと、光秀の思いが浮かんできた。本能寺、坂本、安土城を訪ねても、信長の仕打 ちに怒る光秀像にとらわれがちだ。信長の面罵に耐えつつ、仕えた光秀の印象が強い。他の要因の考察を弱いものにしている。彼の心にある清和源氏足利幕府 再興の思いは、片隅におかれがちだ。

  信長の臣下の武将 であれば、光秀に限らず、罵倒される日常であったはずだ。しかし、主射ちの謀反には抵抗がある。仮に首尾よく成就してもいつ自分が寝首をかかれるかもわか らないからだ。あすは我が身を考え、腰がひけた。あてにならない公家はともかく、気脈を通じた細川(丹波)、筒井順慶奈良)ら畿内の有力武将は動かな かった。

 合理主義者と宣教師フロイスが評した光秀が衝動で本能寺襲撃したはずがない。でなければ成功しなかった。用意周到に準備した。特に事前に計画が漏れるならた ちまち首をはねられる。秘密裏に事を進めるため、の根回しは限界があり、本能寺変後の同盟関係は話題すらのらない。しかも、戦国武将たちにとって武門の誉 れよりも、我が身、家門が大事だった。成功しながらあえなく消えた光秀の誤算は清和源氏の旗印への過信というか読み違いだろうか。

  光秀の謀反の動機については日本史最大の謎といってもいい。光秀個人の怨恨説から秀吉、家康朝廷比叡山まで巻き込んだ黒幕説もあり、江戸時代に考証されているが、いずれも決めてのない推測にとどまっている。

  黒幕説には秀吉、家康朝廷比叡山四国説など50にのぼる。しかし、それに乗る光秀ではなかった。やはり源氏直系の旗印の下、室町幕府復興と他の要因が融合した謀反劇とみるのが自然である。ただ天下人信長のあとを引き継ぐのは光秀にとって荷が重かった。

  柚子ふろは、資料や小説の疑問を解き明かす効果はある。

  帰りは愛宕山表参道を歩く。水尾分かれから下り、清滝にでる。ここは愛宕参詣の宿場であった。料亭に名をかえた宿場の名残りが数軒ある。参拝者は清滝で水垢離して精進潔斎、山へのぼった。

 火伏せの神を祀る愛宕神社は、京の料理屋から民家までお札を配布している。家の中にかまどがあったころには、どこの家でも見かけた。毎日、麓からのぼる市民 は珍しくないほど親しまれている。清滝川に沿って行くと、トンネル。ここもミステリースポットで人気が高い。夜なら気味が悪いだろう。雨の日、タクシーで 女性を乗せた運転手が後ろを振り返ると、シートがびっしょり濡れ、女性はいなかったなど幽霊もどきの話にはことかかない。

  トンネルを出ると、鳥居本。茅葺の鮎茶屋を過ぎ、化野。東の鳥辺野、西の化野はともに名高い葬送地であつた。掘り起こされた石仏念仏寺に肩を寄せ合い、観光客を迎えている。

  天正10年6月2日(1582年6月21日)、光秀は丹波を出発、馬上の人になった。備中目指したはずの光秀軍は途中で目的地を京へ変えた。本能寺の変の決 め台詞に『わが敵は本能寺にあり』(頼山陽漢詩)がある。しかし、事前にこんなセリフをいえば、たちまち謀反発覚、信長逃亡はまちがいない。このため、 『敵は本能寺』は面白くするための後世の俗説が有力だ。

  光秀挙兵の報は京、大阪丹波奈良三重などに届き、家康は命からがら伊賀越えで難を逃れた。光秀は朝廷に銀を贈り、謀反の印象を弱め、清和源氏の末裔をアピールして味方に引き入れようとした。しかし、秀吉の軍門の前に水尾の夢はあっけなく消えた。

  敗走する光秀の脳裏に再び去来したのは源氏の旗でなく、「織田信長あっての明智光秀」の再認識ではなかったか。わが敵は我にありである。

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