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粟津征二郎の紀行エッセイ

2017-05-05 第135回 世界遺産 白川郷合掌集落を歩く

エキゾチッククラシックな茅葺の里〜

 白川郷は外人観光客の人気スポットである。爆買い観光でなく合掌造り観光は日本文化を訪ねる心の旅といえる。外人観光客からすればエキゾチックジャパンにほかならないが、この合掌造りの里を世界に紹介したのはドイツ人建築家ブルーノ・タウトである。昭和10年5月、白川村に足を踏み入れたタウトの感想はあまりにも有名である。世界遺産申請にも引用された。

 <ここの景色は日本的でない。少なくとも私がかつてみたことのない風景だ。これはスイスかさもなくばスイスの幻想だ>

 日本の農民世界共通語を話さないけれども住居を通じて語っている、と称賛した。

 関西の中学生修学旅行先に白川郷が選ばれるのも世界文化遺産に指定による教育効果とあいまって、北海道と並ぶ体験型観光の魅力のほかに、日本人からみてもエキゾチックな風景であるためだろう。

 西に白山連峰、東に飛騨高地に挟まれた白川郷烏帽子岳標高1675メートル)周辺を水源にして富山湾にそそぐ荘川の上流に点在した集落であった。世界遺産の萩町はかつての合掌集落のごく一部にすぎない。江戸期には荘川、白川、清見村42ケ村を総称していた。冬には季節風日本海をわたり、豪雪をもたらし、合掌集落は雪に埋もれた。住民は大家族制の下、かやぶきの三角形の屋根で囲われた家で春を待った。 

 建築家の平山忠治は現代建築のなかでも民家に徹底的に取り組み、戦後の建築写真のスタイルを確立した。平山は昭和32年飛騨白川の峠越えで合掌集落を目にしてショックを受けた。巨大さとともに農家の屋根に疾走するイノシシを見た。以来、多くのカメラマンが破風という建築様式の屋根にイノシシの姿を求め、白川にやってきた。

 5月は白川郷の雪が溶け、新緑が花とともに一気にやってくる。GW明けが桜の季節になる。いまでこそ押すな押すなのにぎわいになる白川郷高度成長期60年代70年にかけて過疎化が進行した。豪雪が引き金になり、離村が相次ぐ。挙家離村のはじまりは中国山地が著名であるが、実は京都北山の八丁集落が60年代に全国の先鞭をつけて姿を消している。北山歩きの目的地にもなった廃村八丁。豪雪と病人が6戸の絆を切った。

  白川郷はやや遅れて過疎が始まった。白川郷の風景を大きく変えたのは1963年に竣工した御母衣ダムである。牛首地区の南の上流にできた東洋一のロック フィル・ダム。360戸が水没した。ブルーノ・タウトが見た合掌集落は湖の底に眠る。まさに「スイスの幻想」になった。ダムと道路の開発は荘川流域を変 え、合掌集落は保存の試練に直面した。ダム特需の都会の風は、大家族制の絆をゆるめ、挙家離村が進行する。京都に近い北山の集落が過疎に見舞われることが 早かったのも、都市の風が早く吹いていたからだ。荘川沿いの23地区のうち、9地区が姿を消し、人が住むのは10数集落に減った。

 建築家、写真家が合掌家屋を求めて、白川を訪れるブームが起きた。SLにあこがれる郷愁もあったにちがいない。写真集が手元にある。フリーカメラマンが25 年かけて撮った廃村の歴史は、北山の過疎を取材した経験のある私には、廃村の郷愁よりも人のすまない家の荒涼、不気味さを思いおこさせる。

 萩町の北東4キロ上流の牛首。67年(昭和41)、廃村になった。14戸76人が暮らしていた牛首地区の廃屋、小学校の写真は、風に向かうイノシシでなく、うずくまるけものたちの姿を思わせた。 

 かつては岐阜から富山の国道156号線が関西から道路アクセスになっていたが、いまでは名古屋金沢富山からのバス便、高山から日帰りの観光バスが運行していて観光アクセスは格段に良くなった。秘境のイメージはもはやない。白川郷のメインは世界遺産の荻町周辺に集まり、屋号の民宿が軒をつらねている。

 白川郷23集落のひとつにすぎなかった荻町が合掌建築の代表になったのは町並み保存運動の展開である。荻町は どちらかといえば大家族制の家はなかった。それがブーノ・タウトの目を引かなかった理由になる。萩町の観光スポットの上町(かんまち)の三棟の合掌造りは 萩のNO1の撮影場所として名高い。ここを見ずして萩を語るなというぐらい観光名所である。ところがもともとここにあったのではなく、70年代に移築され た家だ。

 5月の田植え時期になると、田んぼの水に逆さ家が映り、ため息がでる美しさだ。

 高山方面から萩町にはいって最初の家のため、観光客だけでなく住民も外から家に帰ってきたやすらぎを提供する。有家ケ原集落の「そらきたまごすけ」という北さんの家は「基多の庄」と名を代えてレストランになっている。

 大家族の暮らしは萩町でなく御母袋に移築の遠山家からしのぶことができる。40人もの家族が住み、養蚕や農作業で暮らしをたてた家は民俗資料館として保存されている。白川村の 人間の特徴は細面で鼻筋高く、頭髪が薄い。額が広く髪が濃く、骨格も太いという二つに分類される、と、明治の人類学者は書いている。いわゆる男前、美人の里だ。ここでの大家族制は、40人のうち、夫婦は家長と長男のみで、次男以下の男は他家の未婚の娘のもとに通う「妻どい」形式の結婚形態であった。「妻ど い」夫婦の子供は母親の家で育てられ、戸籍上は私生児となった。

 この大家族制は一部の地区のみで萩町にはなかった。山に囲まれた狭い土地で養蚕を続けるためのいわば生活の知恵が生んだ家族制である。

 合掌家屋の成り立ちは不明だ。白山信仰の白川の地名は12世紀半ばにでてくるが家屋の形は定かでない。建築家の川添登は縄文の竪穴住居から古代の大家族住 居、中世の豪族屋敷、近世養蚕農家の伝統と発展により生まれ、西日本にはない中部山岳地帯民家の特色を備えていると、指摘した。冬の豪雪も急勾配の屋根 を生んだ。しかし、江戸期前の形は謎めいている。遠山家からはるか昔をたぐりよせる合掌造りのロマンは、ここを訪れる観光客を不思議な世界に導く。ある人 には先祖の集まりであったり、牛や馬のいた大正、昭和の家族との団らんであったりする。

 去るときの観光客は決まって合掌の家を名残おしげに振り返り、さわやかな笑顔をおくる。またくるよ、は帰りのあいさつだ。

 御母袋ダムの道路沿いに荘川桜の木札が立っている。ダムで水没したエドヒガンサクラ450本のうちの2本、 ここに移植した。ダム建設に対して荘川、中野地区の住民は反対運動を展開した。先頭に立ったのは中野地区の名家若山家の妻若山芳枝であった。先祖から受け 継いだ家をダムごときにつぶされてたまるか。東京へ陳情の途中で見た都会のネオンサインに腹をたてた。あんな無駄なものための電気はいらん。運動は「守る 会」から「死守会」に名を変え、電源開発公社対峙する。

 電源開発公社総裁高崎達之介は、住民との対話の姿勢を最後までくずさず、説得した。当時の建設省のダム工事は強制代執行による禍根を地域に残しているが、 御母衣では批判されても、高崎と住民代表の間に情が通っていた。人間の絆。合掌屋根を地域総出で吹き替える「結(ゆい)」の伝統。助け合わないと生きてい けない歴史が集団離村を決断させた。

 サクラの移築は水没の前の記念碑の意味もあったのだろう。樹齢450年のサクラは移築による宙ずりにも耐え、ダムそばに根をはった。住民のひとりは芽をだし たサクラの木を抱き、泣き続けたという。今年もサクラが咲いた。さくら吹雪は360戸の眠るダムの水面に降り注ぐ鎮花、やすらいの花である。 

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