第66回 平清盛の夢世界 厳島神社の高舞台

  NHK の大河ドラマ平清盛は、源平の戦いの前哨戦の段階であるが、平安期のドラマの難点である時代考証と舞台づくりで苦労している。大河ドラマの江戸、幕末は 概ね好評を得ている。私は脚本もさることながら、舞台づくりが作品のできばえを左右すると思っている。演出とともに「美術」担当の力量にかかっている。民 放も時代劇を制作しているが、注目された作品を寡聞にして知らない。というのも民放に欠けているのは「美術」に対する考え方の違いである。役者が熱演して も背景とマッチしなければ、TVの舞台中継になり、劇場で味わう臨場感に欠け、作品の深みや重厚さがなくなる。民放では「美術」のかげの薄いことが時代劇 を面白くしていない理由だ。ところが、NHKといえども資料豊富な江戸、明治に比べてはるか昔の平安期は、建物や書画、仏像まで数少なく、国宝級である。 ロケは海や山、川、草原などが中心になり、建物はセット。美術が腕をふるってもおのずと限界がある。どこかの知事が「清盛は画面が汚い」と、注文をつけ、 ひんしゅくを買ったが、リアリテイーを出す「美術」、演出が視聴者のイメージと合わないことは多々ある。演出の泣き所ともいえる。

  平安時代の風景を描く難しさは、王朝絵巻と庶民生活の落差が大きく、時代考証に忠実であるほど知事発言のような『汚い』評になる。そこを乗り越えるドラマづくりがこれからの「平清盛」の演出の課題といってもいいだろう。

  舞台が厳島になる後半が楽しみだ。厳島神社は当時の建物ではないが、清盛時代そのままの姿で再建され、清盛の夢舞台を瀬戸内の海に浮かべている。高舞台での舞楽の舞と海の表現は、「汚い」風評を一掃するにちがいない。

          

  厳島神社のある宮島は、対岸のJR山陽本線が通る廿日市から距離にして1キ ロ㍍もない。フエリー乗船場広電宮島口から10分で着く。周囲20キロ㍍の島東、扇形になった入り江に厳島神社がある。神体山の弥山(みせん)は標高 529㍍で原生林に覆われ、山頂には巨岩、奇岩がり、山頂からの瀬戸内の眺望は伊藤博文が「この眺望こそ宮島の真価」とまで激賞した。

  古来より神の島として崇敬を集めた宮島であったが、平家は瀬戸内の制海権をにぎり、安芸守に就任した清盛は宮島を瀬戸内の根拠地にして勢力を蓄えた。瀬戸内 の守護神、厳瀬戸内の守護神、厳島の神を敬い、保元、平治の乱に勝ち、都に平家政権を打ち立てた1167年(仁安2)の翌年、寝殿造りの社殿造営に着手し た。清盛 は1167年、太政大臣になるものの、名誉職に満足せず辞任。翌年病に倒れ、出家した。回復した清盛は福原(神戸)に別荘を造り、厳島神社の造営に没頭し た。この間、宋との貿易に力を注ぎ、そのかたわら一族を引き連れ、厳島参詣を繰り返し、一族繁栄と極楽往生を祈願して「平家納経」を奉納、海上に浮かぶ寝 殿造りの社殿は平家の守り神であると同時に象徴にもなった。

  宮島は別名、厳島ともいうが、もともとは「神を斎(いつ)き祀る島」と呼ばれ、平安末期になり、厳島の神の鎮座する宮島の呼称が一般的になった。

  連絡船の短い船旅で誰もが船上から歓声をあげるのが、海上の朱色の大鳥居である。高さ16㍍、棟木24㍍は、松丸太の千本杭で支えられている。この松丸太の 杭は戦後の日本建築でビルの基礎にも使用されたが、創建以来、8代目を数え、地元では「8代目」と親しみをこめた愛称で呼ばれている。船の上から「よっ8代目」という声がかかることも珍しくない。

  過日、台風の被害にあった社殿の大半は鎌倉時代に再建され、大鳥居に習うならば3代 目、そして本殿は戦国大名毛利元就が再建した4代目である。元就と神社のつながりは、室町期、山口に京文化の町を築き、西国の支配した大内義隆を討ち、 主君に取って代わった陶晴賢(すえはるかた)と、安芸から西下した元就がここ厳島で西国の覇者をかけた決戦場になったからである。元就は、合戦に勝利し、 中国地方の覇者になった。荒れた戦場を修復し、瀬戸内の制海を抑え、天下を窺うところで世を去った。元就以降の秀吉をはじめ、安芸藩主など武士の信仰は継 承された。

  寝 殿造りの社殿、横にのびる回廊の下は海である。瀬戸内の干満の差は大きく、大潮時には大鳥居まで歩いていける。ところが潮が満ちると、社殿まで潮が迫り、 干満の差は3㍍から4㍍におよぶ。建築にあたり、床下の高さをどのくらいするか、満潮時の水が床に満ちる一歩前、船でいう喫水線は、高からず、また低から ずの頃合が難しい。安全面なら台風でも安心の高さにすればいいが、床下と水面の空間がありすぎて、美しくない。手をのばせば水面に届く高さが設計した平安 武士の美意識であった。京の池邸の寝殿と比較しても、海でありながら床は低いように思う。海を友にして成長した清盛らしい尚武の気風は、海上の舞台にも満 ちている。

          

  潮 の満ち干が奏でる潮騒もまた、王朝貴族の館にない音の風景も都はなれて参詣の平家一門にとどまらず、貴族たちの心をなごませた。神社参拝の昇殿は、現在、 東回廊から高舞台前を経て、西回廊へのコースになっており、水上社殿の風雅なたたずまいを味わうことができる。清盛の夢舞台に立ち、改めて海に開かれた社 殿の構造に思いめぐらす。大鳥居までの直線軸と回廊の横軸の組み合わせは、鎌倉の鶴岡八幡宮の浜鳥居から参道、社殿にいたるアプローチに共通するものがあ る。違うのは海から本殿へ直接つながる縦横の線だ。清盛から頼朝の武士時代に富をもたらした宋貿易、宋文化の影響かもしれない。

  公家、貴族たちの厳島参詣が流行したのは清盛の威光とともに、海上社殿の存在があったのだろう。舞楽奉納に見入る清盛の誇らしげな顔が目に浮かぶ。

  厳島神社の祭で平安時代の華やかな雰囲気を伝えるのは、旧暦6月17日の「菅絃祭」である。清盛が都の風雅をそっくり移したと、いうが、この祭とともに高舞台での舞楽が有名だ。海を背景にした舞楽は、清盛の好むところだった。

          

  当時、京から船旅で宮島まで片道7日以上かかった。清盛は記録に残るだけで10回の参詣している。異母弟の頼盛にいたっては20回の記録だ。このため、後白河法皇が怒り、頼盛、保盛親子の重職を召し上げる騒動まであった。

  宮島の町を歩く。冬場は道筋から焼き牡蠣の匂いが漂い、焼きたてを口にしながらの食べ歩きに勝るものはない。

  宮島は人の住まない神の島であったが、平家全盛の頃から神社に奉職する内侍などが住み、室町末期には常住者の町ができた。社家、僧、町民たちが加わり、門前町に なった。江戸時代には市が立ち、浄瑠璃、芝居、さらに遊郭も移り、歓楽街ができあがった。桟橋からの表参道は現在、商店街になっており、宮島杓子などみや げもの店と飲食店が並ぶ。もみじ饅頭の店は数えて11軒あった。郵便局隣には長さ7・7㍍、幅2・7㍍、重さ2・5トンの大杓子が参拝客の目を見張らせ る。最近までは映画館、カフエ、旅館がそろっていた。

  本殿南の開かずの門、不明門前の筋違橋から大聖院(真言宗御室派)までの道は滝町と呼ばれる古い町並みになっている。社家や内侍の屋敷、宿坊があった。薬医門と石段の上卿屋敷は、社家の様式を残し、代々の神職の住まいだった。

          

  弥 山までは徒歩で1時間半の距離ながら、ロープウエー利用がお勧めだ。山頂手前の獅子岩で降りるが、山頂からの瀬戸内眺望は、一見の価値がある。帰りには名 物料理、あなごめしを食べたい。宝物館裏手の「ふじたや」は土地の人が太鼓判を押す絶品の味。どんぶりに2尾のあなごがのり、タレと丹念に焼いたこだわり の店である。





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