第143回  鈴鹿越えの伊勢参りはここ「関」の宿から

東海道で唯一、残った宿場町並み〜

  関西から伊勢に行くには鈴鹿越えの旧東海道を行くか、大和から伊賀越えの道を歩くのが江戸時代の参拝ルートになっていた。伊賀越えは本能寺変のさい光秀の襲 撃を予想して伏見にいた徳川家康東海道を避けて、命からがら駿府へ戻った大和街道の難所である。鉄道は関西本線がこの道にはりついている。大阪からなら 伊賀越えが最短距離になるが、京都からは中山道の分岐点、草津宿を経て土山宿から鈴鹿峠を超え、最初の宿が関津である。
  江戸から47番目の宿にな る。
  関町(亀山市)は鈴鹿山系の山間のため、傾斜地が多く、鈴鹿川と加太川の合流する扇状地に家並みが東西に延びている。全長1・8キロ。中心になるのが中町で、本陣、脇本陣など旅籠がここに集まっていた。天保年間の宿村大概帳によると、旅籠の数は42あり、飲食店は99軒にのぼった。
  関宿の町並みは天正年間に土地の豪族、関盛信が手がけ、家康の宿駅制度とともに繁栄した。もともと近江との国境を接する戦略的拠点に位置し、古くは大和で挙兵した大海人皇子天武天皇)が大和から伊勢、美濃にはいり、逆に西進して近江で勝利した歴史がある。
  旧東海道宿駅は中仙道に比べて都市化が進み、往時の建築は姿を消し、ここ関のみが町並みを残した。
  鈴鹿麓という立地が都市化の壁になり、53次まれな景観は1984年、国の伝統的建造物群保存地区に指定された。
  約2キ ロの町を旅人よろしく歩いてみる。近江からの旅人は鈴鹿越えを終えて、晴れ晴れした気分で町歩きを楽しみ、近江へ向かう旅人は緊張しながらも峠越えに備え て、英気を養った。町の東端は東の追分といい、伊勢別街道の分岐点である。鳥居は伊勢神宮が20年に一度の遷宮に神社から移されるお木曳。お伊勢参りはこ こから外宮、内宮へ向かった。
  西の追分は鈴鹿寄りの東海道大和街道の分岐点にある。東西追分の中央の南北に延びるの道の先に関西本線「関」駅がある。鉄道は旧東海道に沿って走り、東に亀山、西に加太(かぶと)駅がある。加太と柘植間の加太越えはSL時代、鉄道マニアがしびれたカメラスポットだ。
  関中町へ 戻る。電線の地中化で空間が広がり、のびのびする。旧西尾脇本陣跡向かいに関まちなみ資料館がある。黒い虫籠窓に、連子格子、おりたたみ椅子のばったりの ついた中二階の建物だ。間口は6㍍なのに奥行き広い。ここには宿場の生活品や古地図など資料が展示してある。関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まる会津 屋か、伊勢参宮の歌にある。
  二階には部屋に布団をしいて旅籠の雰囲気があじあわせる。布団敷いたらいっぱいの広さは現代のシングルルーム。安藤広重東海道五十三次の「関」宿は「本陣早立」の題がついている。
  鈴鹿を前にした大名たちが気もそぞろに宿を後にした朝のにぎわいを描いたものだろう。
  宿場にはさまざまなドラマがある。そのひとつに関の小萬の仇討ちが有名だ。
  九州・久留米藩剣道指南役牧藤左ヱ門の妻は夫の敵討ちを志し、久留米から関まできた。妊娠中の妻は山田屋に滞在して女児小萬を生んだあと、病没した。行き倒 れに近い妻は山田屋の主人と女将に娘を託すさい、小萬の父の死のいきさつを告げていた。山田屋主人は亀山藩剣術指南のもとで修業させ、小萬も女剣士に成長 する。主人から両親のことを知らされた小萬は仇討ちの機会をうかがい、亀山城下で父の仇討ちの本懐をとげた。小萬18歳。母親が久留米から関宿へ来る経緯 は定かでないが、父の仇である小野軍太夫亀山藩に仕官していたといわれ、妻が身重にかかわらず郷里をあとにしたようだ。
  久留米藩は内政に問題をかかえ、牧藤左ヱ門の刺殺事件当時は27人が処刑された宝暦の一揆から落ち着きを戻した頃になるが、7代藩主頼僮(のりゆき)は算術 にすぐれた学者藩主の評がある一方、長きにわたる施政は藩のひずみ生み、自身も25人の側女をおくなど化け猫騒動の因になった藩主のひとり。小萬が本懐を 遂げた天明3年に死亡している。実に70年もの間、藩主に座った。
  小萬はその後、御家再興の道を選ばず、山田屋の娘として関の人になり、36歳の若さで人生を閉じた。小萬は絶世の美女と伝わり、山田屋は小萬人気で繁盛した というが、仇討ちの小萬の顔見たさの客がつめかけたのだろう。墓は宿場の福蔵寺にある。街道には小萬のもたれ松の碑が立つ。これは亀山へ剣術修業に行く小 萬が土地の無頼を避け、隠れた松の説明がついている。山田屋の後は会津屋になり、そば店に代替わりしたが、店には豊国三作の錦絵小萬のコピーがかかり、楽 しい。
  宿屋跡には馬つなぎの環金具が連格子の残り、宿場の賑わいをしのばせるが、宿場と旅人とのふれあいは心温まる。旧伊藤本陣の並びに古い突き出し看板が目にと まった。藍染の暖簾に「関の戸」と染め抜かれた和菓子の店だ。創業から350年の老舗。現当主で13代を数える。寛永年間から赤小豆のこしあんを白いぎゅ うひで包んだ餅菓子は関を代表する銘菓。店内も昔のままのたたずまいを守り、関名物の誉れも高い。
  「終戦直後に4年ほど店をしめました。なんせものがない。しかし、ここで商売を続け、町並み保存までこぎつけた。なんでここが残ったのか。よくみなさん聞きますが、立地もあるでしょうが、年寄りが頑固だったせいもある」
  町並み保存では中山道の木曽宿に注目があつまるが、関は地道に町家の修理、修景に取り組み、個を面に発展させてきた。最初から保存という大きな目標があったわけではない。宿場の良さを残したい住民の思いが線になり、面になっていった。
  古い町を残すのがいいとはいわない。しかし、歴史遺産を守り、活用するのは住民の役割だろう。私の住む大津など歴史の町並みをことごとくなくしている。いまになって東海道町並み再興のまちづくりを進めているが、遅きに失した感が強い。
  関には宿場のほかにもうひとつの門前町の顔が名高い。
  「関 の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿にとる」と、唄われた真言宗御室派地蔵院の地蔵菩薩像は、日本最古の地蔵菩薩といわれ、愛染堂(国指定重文)は室町初期の 建立で、庭園の築山にある桜の古木は藤原定家の歌に詠まれた。地蔵院の歴史は古く天平時代、行基の開祖と伝わる。街道を行き来した旅人がここで道中の安全 を祈願した。小萬の母も地蔵菩薩に祈り、山田屋夫婦に救われたにちがいない。
  帰りはJR関駅から関西本線にのった。関宿は明治以降も宿場で繁盛したが、明治23年 の鉄道開通は宿場町を眠りから起こす蒸気の煙になった。関―柘植間の薄の原を行く加太越えは、観光用にわざわざ造ったような変化に富んでいる。渓谷でない からスルリこそないが、ススキをかきわけ高原を走る気動車の風情は関宿をあとにするにふさわしい余韻がある。               * 

第142回 私は美貌猫のベテイちゃん でもいまはおむつの日々

  * *

  ベテイです。16歳。人間でいえば90歳に近い。京都生まれの京美猫。大津のパパとママの家には生まれて20日余できました。亡き先輩小太郎さんが1歳でした。コタさんには可愛がられ、なめたり、ほぐしたり、いい線をいっていたのですが、縁なく終わり、以来、家のまわりを徘徊する野良のちょっかいの相手をしながら、ええ男の登場をまっていましたが、王子さまは現れぬまま歳月は過ぎてしまいました。

   過ぎし日の思い出は美しい。北米がルーツのわたし。そのせいか春から夏の草原が 好き。BSTVでパパと見た映画を覚えている。ハリウッド映画「草原の輝き」のラストにパパはポロポロ涙を流した。詩のナレーションと字幕が流れ、主人公 ナタリー・ウッドが元恋人の農場を車で去る一本道の左右には草原が輝いていた。

   草原と青春が舞台の映画は切ない。作家の村上春樹がなんども見て涙したと、パパは泣くのは自分だけでないようなことをいっている。

  パパは学生時代にこの映画見て、ナタリーに憧れたとか。わたしからいえば、夢を見すぎていると、いうしかない。

  ワーヅワースの詩「草原の輝き」は日本では一躍、有名になり、パパのお気に入り の女優ナタリー・ウッド好演で評判を呼び、うそかまことか女子大生とのデイトでこの映画の話をすると、相手の目がうるんできたなどと、パパ(私の飼い主) が教えてくれた。ナンパに使うなどもってのほかと思うが、わたしのことをあろうことか、ナタリー・ウッドエリザベス・テーラーの再来と、家族や知人にい い、こちらが恥ずかしくなる。

  『Splendor in the Grass』詩の一節にはこうある。

  草原の輝き 花の栄光 再びそれがかえらずともなげくなかれ

  花は命を失っても後に残されたものに力をみいだそう(高瀬鎭夫訳)

  イギリスのロマン派詩人らしい表現とはパパの受け売り。そのパパは誰かの受け売りかもしれないが、そんなことは気にしない。ワーヅ・ワースの出身地 は英国湖水地方で、琵琶湖畔の大津も湖国。おむつの日々の中で思いだすのは、若いころ、庭の芝生で小太郎さんと弟のボンと、じゃれあった草のざわめきで す。小太郎さんがマムシを見つけて、毛を逆立てて威嚇しながら、パンチ。マムシもカマクビ立てて対抗し、最後はコタさんが追い払いました。

  どんなもんじゃと、毛づくろいする姿は頼もしいお兄ちゃんでした。時折、わたしの顔をなめてくれたときの心のときめきは忘れません。

  わたしの趣味はサッシのガラス戸開け。庭に面したサッシ戸は結構重くて、開けるにはコツがある。弟のボンが挑戦しては失敗していた。右から左に開け るつもりでサッシに手をかけ、頭でこじあける。コタさんなんか、外へ出たくなると、「行こうか」と、誘い、わたしに集団脱走のお先棒を担がせました。

  ある日、遠出して道がわからなくなっていると、「お嬢さん、遊びませんか」と、トラ模様の野良が声をかけてきた。深入りしなければいいか。そう思っ て、ついて行くと怪しい素振りをみせ、驚いて逃げ帰りました。コタさんに「バカ、こどもができたらどうする」と、怒られました。野良さんの寿命は家猫に比 べてはるかに短い。わたしの16歳は野良さんならゆうに100歳以上に相当する。それだけ猫生の風雪は厳しく、花の時代はわずかでしかない。

  野良の雄は雌を求めてひたすら歩き、思いかなわず、死んでいく例も多いと、聞いた。

  旅から旅のさすらい。ロマンチックな響きがあり、魅かれるところがあるが、コタさんは「お前が男をしらんからだ」と、いやな説教していた。コタさん も喧嘩好きが高じて、感染症にかかり、最後は水もとらずに静かな最期でした。死の前日までふらつく足で歩き、口をあけて呼吸し「ベテイ、もうあかんわ。力 がはいらん」と、話かけました。猫の最期の頃は心拍数が下がり、スローペースになるようです。

  わたしはまだそこまで落ちていないので当分は大丈夫。でもコタさんに倣い、時期がくれば、2階の部屋にこもるつもりです。ただ、いまは、食べても食べてもおなかが減り、胃と頭の関係がおかしくなったように思います。アルツハイマーでしょう。

  人間は延命治療と称して、管で栄養補給していますが、猫は本来、死期を悟ると、姿を隠し、静かに退場します。

  今年春から毛がもつれ、便の調子がいまいちでしたが、医者の世話にならずに夏を超え、秋の気配とともに、ある朝、立てなくなりました。私の母も似たパターンで昨年旅たち、母の分まで生きるつもりが、あぶなくなっています。寒さがこたえます。

  パパは朝5時半に起床、おむつを替えてくれます。ママから介護主任の肩書をもらい、ここ1ケ月は付きっきりの介護。尻も上手に洗い、ふいてくれ、感謝しています。これだけ大事にされるなら、まだまだ長生きしなくてはと、モチベーションを高めています。

  パパは大変大変といいながら東京の長男、次男から電話がかかるたびに、楽しそうに報告しています。

  長男と次男 「おやじ、やがて来る本番の練習と思い、ベテイの世話をしっかりやるんやで」

  「あほか、ベテイはかわいいが、誰かさんと一緒にできるか。お尻の輝きが違う。この頃、つくづく女性の上司に仕える男たちに同情するわ。朝から寝るまで小言の山を発掘している」

  「そんなに違うか」

  パパはここからいつも饒舌になる。

  「ベテイには生後20日からの美しい思い出がいっぱいあるが、あの方のこども時代は知らん。これはコミュニケーションのうえで大きい。草原のざわめ きを共有の期間はごくわずか。子育てを終わり、もうこどももできない夫婦が一緒に暮らすのは文化人類学的に無理がある。まして夫婦の介護は一番むつかし い。化粧でごまかしてきた関係はしわとしみで破綻している。いま論文を書いているが、厚化粧の青春をいかに持続するか。これがテーマだ。狐とタヌキの関係 や」

  息子たちはあきれて電話を切り、それでもパパは話をやめない。わたしのことを猫のアルツハイマーらしいと、強調しているが、かわいいらしく、ババ猫でも心は子猫のまま。

  子猫時代がパパの脳裏に焼き付いているようです。

   高齢化社会における男女が日々、楽しく過ごすには、「草原の輝き」を互いに共有 するかどうかで決まる、とはパパの口癖。近々の話など忘れても、昔話が頭につまっているなら、それをたぐり寄せて会話をすればいい。相手の少年少女時代を 知らないまま結婚し、後はあらさがしに明け暮れる夫婦にとっておむつが輝いて見えるはずがない、とパパはしつこい。早くも予防線を張っています。ああ過ぎ し日は美しい。「草原の輝き」がなつかしい。

  なんとかこの冬を乗り越え、春が来て草原を歩きたい。♪♩スロー、スロー、クイック。

第141回 鯛のうまいのは秋だ、今だ

〜もみじ鯛を求めて明石浦を歩く〜

  鯛の旬は春というのが相場である。ところが漁師や業者に聞くと、秋、もみじのころの鯛が一番うまいと、笑われた。大津から新快速で1時間半の明石。神戸から 二駅ながら、遠くに感じるが、電車の旅には格好の距離である。駅手前の車窓から北に明石城が見える。駅に近い。西に坤(ひつじさる)櫓、東に巽櫓がそび え、天守閣の赴きがある。

  天守台はあり、五層の天守を計画したものの、櫓で代用した。山陽道が通り、淡路・四国の瀬戸内ルートや但馬・丹波への道がここでわかれる交通の要衝であった。

  平安時代歌人在原業平を主人公にした伊勢物語にも『蔦(つた)、楓(かえで)茂り、もの心細い』とあり、さらには源氏物語では女の問題で京を逃れた光源氏が住吉から明石へ船で移り、明石入道の娘と出会う舞台になった。

  徳川秀忠は四国の 外様大名を抑える城として信濃松本藩主小笠原忠真に築城を命じた。坤櫓は駿府城の守りの要になっている。秀忠肝いりの城には小笠原忠真が初代藩主になる も、わずか15年で小倉藩に国替え、あとは松平、大久保、本多、松平と城主はめまぐるしく代った。幕府にとって譜代藩の西の拠点を親藩にする意図が透けて みえる。

  4代目の松平忠国は読書を好み、源氏物語を愛読した。忠国は城下に源氏物語ゆかりの史跡をつくり、まちづくりに功績を残した。本丸跡は明石公園になり、野球場はかつて巨人のキャンプ地でにぎわった。重文の櫓は年1回のみ公開され、築城時の木の光沢に触れることができる。

  駅を出て、南へ行くと、港と官庁街がある。その一角の東西に延びているのが魚の棚市場。土地の人は「うおんだな」とよんでいる。東西450㍍の市場は明石城 築城とともに城下の台所を担ってきた。港が目と鼻の商店街は明石海峡の新鮮な魚介類をそろえ、明石だけでなく京阪神に出荷している。明石ブランドで人気が 高い。

  タイやアナゴ、タコ、イカなどが並ぶ魚屋のおっちゃんに声をかけた。

  「京からきたんか。京は注文がうるさくてな。夏はハモ。淡路のやつや。かたちをそろえんと、気にいらん。落とし(湯を通してうめづで食べる)は大きくても、小さいのもあかん。頃合いやな。いまはタイが旬や」と、見事なタイを指さした。

  「タイは春の桜鯛といいますが」

  「それは知らんのひとの話。春は色、形がいいが、味は秋より劣る」

  春のメスは産卵期で身がやせている。オスはメスのような違いはないが、いずれにせよ、夏から秋にかけてのタイは肉がつき、味がいい。並んだタイはブルーの斑 点、目のまわりがブルーのアイシャドウと、おしゃれだ。これはカニ、エビを食べるためで、それに小魚をたっぷり食べて油がのる。

       

  「それに海峡の流れで身がしまる」

  時速15キロ㍍の海流が明石海峡なのだ。中には鳴門骨という渦潮で背びれをいため、コブのできたタイがいるが、渦潮育ちとして珍重する。

  「明石のタイはエビのほかにタコも食べる。明石産のタコの1割には足の数がそろわないタコが水揚げされる。むろん市場にはでんがな」

  おっちゃんの話はつきない。8月から11月のタイのうち、1キロ以上のものは特選タイになり、贈答品になるほか、料亭などが買い込み、祝いの席をもりあげている。

  最近は活き魚輸送の多様化で生け簀のタイを料理する店がにぎわっているが、アジ、サバと違って白身魚は鮮度がよければ味がいいわけではない。とれとれのタイはこりこりするものの、舌にからみつく味わいはない。

  明石市がタイの食 べごろを調べたデータがある。市民47人を対象にしめてから食べるまでの時間を分けて、味を聞いたところ、10時間後の天然タイが一番うまいという結果に なった。次いで24時間が続き、締めて2時間から直後のタイの味がいいという回答は最下位だった。これはうまみの成分のグルタミン酸調査でも10時間のタ イのグルタミン酸が高い数値を記録した。タイに限ってはとれとれはうまいなど「通」ぶっていわないほうがよい。ただ、養殖ものは、5時間から2時間がよ く、とれとれ料理でもうまみに差はなく、24時間経過ものの評価は低かった。

  養殖ものなら、しめてから早めに食べ、天然ものは10時間前後に食べるのがおいしく味わうコツということになる。つまり、養殖鯛なら生け簀料理で食べるのは正解である。

  商店街を南に歩き、明石市民が前の浜と呼ぶ浜にでた。6漁協がここで水揚げするが、明石の競りは11時半の昼競りである。つまり魚の棚の午後は前夜、水揚げしたばかりの魚が並んでいる。トロ箱から逃げたタコが通りを歩いているはずだ。

  タイ漁は協定で朝4時から6時半の間に出航して13時間から14時間操業したあと戻るのが決まりだ。ゴチ網、底引き、一本釣りの3種類のうち、釣りは少数派 になる。水深140㍍の海底から引き揚げられたタイは浮袋が膨れ、仰向けに浮いている。このため、浮袋を竹の箸でついて穴をあけ、生け簀に入れ、競りにか ける。近頃は他産地ものが明石産で出回り、漁協では産地表示のタグをつけた。

  タイは出荷前に生け簀から揚げ、手鉤でシメる。目の後ろ上を刺して脳死状態にして血抜き、氷詰めにして送り出す。この十時間後が食べごろになるわけだ。

    

  魚の棚の食堂でランチ定食を注文した。天然タイの刺身はさすがについていなかったが、タコ飯、タコ刺身、吸い物はうまかった。明石のタコはカニ、エビが好 物。海流とエサが明石名物を育んだ。明石のタコには特徴がある。体の茶色が濃く、つの状の皮膚が突起があり、押すとへこんでしまう。明石の浜では干しタコ をみかけるが、古代から保存食になり、タコめしには生よりも干しタコをつかうのコツだそうだ。

  イカにしてもそうだが、天日干しは味を濃くし、うまみを増し、深みを生む。食堂のタコめしもおそらく干しタコだろう。

  魚博士で有名な末広恭雄の『魚の四季』によれば、タコは海のギャングウツボすら襲うという。好物イセエビの固い殻をかみ砕き、するっと中身を食べてしま う。余談になるが、知多半島の宿で伊良子水道のタコがうまいのは、イセエビを食べるからという自慢話を聞いたことがある。実に贅沢なタコだ。

  そこで明石焼きをいただく。タコ焼きやお好み焼きは、好きになれないが、明石焼きのふんわりした味わいと、すまし汁にミツバを浮かべた香りは口にあう。粉も んの雑駁な味とちがってピュアな口あたりがいい。大阪出身のうちの連れ合いなんか、お好み焼きでビールが一番というが、面白くない吉本の笑いのTVをみて いるようで理解に苦しむ。

  源氏物語の舞台を歩く。4キロほどの道。光源氏は入道の別荘のあった浜の住まいから山手の入道の娘、明石の君のもとへ通う。源氏が都へ呼び戻されたため、こ の恋はあっけなく終わった。小説の世界であるが、往時の明石の浦をたぐりながら、紫式部光源氏のモデルのひとりとして描いたという在原業平を海に重ね る。評判の男前、歌人、無類の女好きのため、都を離れて須磨に隠棲するが、紫式部は業平の弟行平にも興味を持ち、実名で登場させている。行平は文武両道の 官僚として朝廷で重きを置かれた。明石の浦は式部にとって在原兄弟につながる原風景だった。

  平城天皇桓武後継)の血をひく兄と弟。紫式部がモデルに投影したであろう男たちゆかりの明石の海は大河のごとく、とうとうと流れている。

               *

第140回 色づく京の10月は隠れ里水尾

〜本能寺変の謎解く鍵はここにあり〜

  京都には市内中心部から車で1時間の距離の隠れ里が西、南、北に散在している。北はいうまでもなく北山奥の花脊、広河原、久多。手前に鞍馬、貴船、八瀬、大原。ところが西の愛宕山麓も魅力的な隠れ里がある。水尾。京都駅からJRに乗って秘境駅で降り、とぼとぼとゆく道筋はTVサスペンス劇場ですっかりおなじみだ。

  保津峡駅は山陰線 の複線化で駅が移動し、かつての駅は新設のトロッコ駅になった。まだSLが走っていた70年代、誰も降りない駅でタバコを吸い、おもむろ吊橋を渡った秘境 の風情は失われ、いまや観光名所に数えられる。保津川下りの舟が急流を嵐山へむけて舵を巧みに操り、橋からの眺めに興をそえる。

  60年前、金閣寺が炎上した。大学生による放火は、三島由紀夫水上勉の小説の素材になった。舞鶴禅宗寺の実家を離れ大谷大で学ぶ若者の動機は恰好のマスコミの話題を提供した。警察の調べを受けた母親が帰りの山陰線から保津狭へ投身自殺した川の流れ。

宗教を学ぶ若者の苦悩、絶望した母の悲しみを遠く海へ運んでいった。

  鵜飼橋(うごう)の名のある吊橋は長さ50㍍、高さ60㍍あり、4年前の台風でワイヤーが切れ、長く通行止めになっていた。

     

  橋を渡り、水尾の道をゆく。紅葉にはまだ早い。京から丹波への道は現国道9号線の老い坂越えと、明智越えという愛宕山麓の道があり、古くは『続日本紀』に山背国水雄の地名が出てくる。稜線の標高は420㍍。ここを下ると、水尾の里である。

  山の斜面沿いに民家が並ぶ。石積みの塀のまわりに柚子の木が葉を茂らせ、実がついていた。黄色くなるのは冷え込みごろなので、まだ早い。我が家にも捨てた種 から芽を出した柚子の木が3本あるが、すでに15年以上経つのに実がつかない。まさに桃栗3年、柿8年、柚子は15年以上といわれ、柚子バカとバカにされ た。我が家の木もその仲間で今年こそと楽しみにするが、あてはずれの繰り返しだ。

  水尾の柚子は種から育てた柚子バカで、接ぎ木の柚子に比べて酸味など味が濃いという。

  水尾の柚子の栽培は新しく、もともとは愛宕参道で女たちが樒(しきみ)を販売、そのついでに土産として柚子やビワ、マツタケを並べたのが始まりらしい。いまでは数軒の家が地鶏の水たきと柚子風呂をセットに営業、晩秋の西山名物になっている。

  水尾の歴史は平安朝7代、清和天皇が出家して丹波、山城の寺をめぐり、水尾を隠棲の地に選んだことに始まる。藤原良房摂関政治天皇に娘を嫁がせ、孫息子 を後継にして実権を握る権力構造になっていた。清和天皇には兄の惟高親王がいて、皇太子になるはずが、母が紀氏の出身のため、強引に出家させられ、9歳の 清和天皇が即位した経緯がある

  清和天皇にとって藤原氏をはじめ俗世を離れた地で余生を過ごすことにためらいもなかった。天皇は政治の実権を失っていた。天皇とともに多くの女官らが水尾に すみつき、水尾はみやびな里になった。水尾に伝わる榛の木の煮汁で染めた三幅前垂れは、女官たちが残した袴から変化したものといわれている。

  清和天皇の第六皇子貞純親王清和源氏の祖。清和源氏は21ある源氏の中で武家の棟梁ともいわれる名門であり、源頼朝足利尊氏武田信玄徳川家康が代表 各になる。源氏姓は平安朝三代の嵯峨天皇には子女が多く、その解決策として臣籍降下して源性を名乗ったのが始まり。紫式部描く源氏物語の主人公光源氏は嵯 峨源氏の流れの架空の人物ながらモデルは源融など話題に事欠かない。

  明智光秀本能寺の変6日前、水尾の清和天皇陵に参詣、武運を祈ったという。光秀の当時の居城亀山城は現亀岡市に位置し、そこから保津川沿いに水尾に向かった。光秀の家系は清和源氏の支流土岐氏の流れのため、愛宕参詣のたびごとに清和天皇陵に参詣、武運長久を祈願した。

  平家一門の織田信長征夷大将軍になれなかった。光秀と信長の確執の根は意外と深いものかもしれない。戦国、下克上の世で源氏の血統にこだわった光秀の信条は、信長に仕える日々の下、膨れ、公家を味方につけ、信長排斥への道を進む。このあたりが秀吉との大きな違いになる。

  明智越えの峰に「峰の堂」と呼ばれる清和天皇ゆかりの寺がある。本尊は清和天皇の念持仏といわれ、第六皇子で源氏の祖、貞純親王の宝篋印塔が祀られている。光秀は丹波から13000の兵を3隊に分け、自らは明智越えで水尾にはいり、本能寺目指したという。

  光秀の下克上も10日余の3日天下に終わり、明智越えの「峰の堂」はいつしか無念堂と呼ばれ、ハイキングの名所になった。

  <写真 2>

  水尾名物の柚子ふ ろにつかり、体に柚子の匂いをこすりつけ、またつかる。まさにいい湯だな。ふと、光秀の思いが浮かんできた。本能寺、坂本、安土城を訪ねても、信長の仕打 ちに怒る光秀像にとらわれがちだ。信長の面罵に耐えつつ、仕えた光秀の印象が強い。他の要因の考察を弱いものにしている。彼の心にある清和源氏の足利幕府 再興の思いは、片隅におかれがちだ。

  信長の臣下の武将 であれば、光秀に限らず、罵倒される日常であったはずだ。しかし、主射ちの謀反には抵抗がある。仮に首尾よく成就してもいつ自分が寝首をかかれるかもわか らないからだ。あすは我が身を考え、腰がひけた。あてにならない公家はともかく、気脈を通じた細川(丹波)、筒井順慶(奈良)ら畿内の有力武将は動かな かった。

 合理主義者と宣教師フロイスが評した光秀が衝動で本能寺襲撃したはずがない。でなければ成功しなかった。用意周到に準備した。特に事前に計画が漏れるならた ちまち首をはねられる。秘密裏に事を進めるため、の根回しは限界があり、本能寺変後の同盟関係は話題すらのらない。しかも、戦国武将たちにとって武門の誉 れよりも、我が身、家門が大事だった。成功しながらあえなく消えた光秀の誤算は清和源氏の旗印への過信というか読み違いだろうか。

  光秀の謀反の動機については日本史最大の謎といってもいい。光秀個人の怨恨説から秀吉、家康、朝廷、比叡山まで巻き込んだ黒幕説もあり、江戸時代に考証されているが、いずれも決めてのない推測にとどまっている。

  黒幕説には秀吉、家康、朝廷、比叡山、四国説など50にのぼる。しかし、それに乗る光秀ではなかった。やはり源氏直系の旗印の下、室町幕府復興と他の要因が融合した謀反劇とみるのが自然である。ただ天下人信長のあとを引き継ぐのは光秀にとって荷が重かった。

  柚子ふろは、資料や小説の疑問を解き明かす効果はある。

  帰りは愛宕山表参道を歩く。水尾分かれから下り、清滝にでる。ここは愛宕参詣の宿場であった。料亭に名をかえた宿場の名残りが数軒ある。参拝者は清滝で水垢離して精進潔斎、山へのぼった。

 火伏せの神を祀る愛宕神社は、京の料理屋から民家までお札を配布している。家の中にかまどがあったころには、どこの家でも見かけた。毎日、麓からのぼる市民 は珍しくないほど親しまれている。清滝川に沿って行くと、トンネル。ここもミステリースポットで人気が高い。夜なら気味が悪いだろう。雨の日、タクシーで 女性を乗せた運転手が後ろを振り返ると、シートがびっしょり濡れ、女性はいなかったなど幽霊もどきの話にはことかかない。

  トンネルを出ると、鳥居本。茅葺の鮎茶屋を過ぎ、化野。東の鳥辺野、西の化野はともに名高い葬送地であつた。掘り起こされた石仏は念仏寺に肩を寄せ合い、観光客を迎えている。

  天正10年6月2日(1582年6月21日)、光秀は丹波を出発、馬上の人になった。備中目指したはずの光秀軍は途中で目的地を京へ変えた。本能寺の変の決 め台詞に『わが敵は本能寺にあり』(頼山陽漢詩)がある。しかし、事前にこんなセリフをいえば、たちまち謀反発覚、信長逃亡はまちがいない。このため、 『敵は本能寺』は面白くするための後世の俗説が有力だ。

  光秀挙兵の報は京、大阪、丹波、奈良、三重などに届き、家康は命からがら伊賀越えで難を逃れた。光秀は朝廷に銀を贈り、謀反の印象を弱め、清和源氏の末裔をアピールして味方に引き入れようとした。しかし、秀吉の軍門の前に水尾の夢はあっけなく消えた。

  敗走する光秀の脳裏に再び去来したのは源氏の旗でなく、「織田信長あっての明智光秀」の再認識ではなかったか。わが敵は我にありである。

  

第139回 猫小太郎がゆく文豪の「吾輩の猫の実家」

  〜スロー、スロー、クイックの猫歩き〜

     
  猫であった吾輩小太郎が黄泉の国に旅たって4年半になる。黄泉の世界は国境もなく自由である。自由であるがゆえに、かつての縛られた生活を懐かしく思うこ ともある。今年の盆に琵琶湖畔大津の実家に戻り、ベテイ、ボン、元ブンヤの旦那とママの顔を遠くから眺め、旦那の顔から歳月の流れを感じた。頭の髪が極め て薄く、歯は3本残すのみで、やがて生えているものはなにもない顔になるのだろう。想像するだけで怖い。
     

  吾輩の納棺のさい、旦那が文豪夏目漱石の小説を入れてくれた。「吾輩は猫である」のタイトルに魅かれて徒然なるままに読むのが日課になった。大津の実家を のぞいたついでに、東京の小説の舞台を歩いてみたくなった。幽霊に足があるのは不自然ながら、飛ぶように歩くと、思ってもらえればいい。

 東京は文京区向 丘2丁目20の7。イギリスから帰国した文豪がここで暮らした「吾輩は猫」の舞台である。当時の町名は本郷区千駄木57。文豪は松山、熊本で教師生活する も、熊本では4年の勤務で計6回の引っ越しをしている。本郷の家は4年住み、居心地は良かったようである。持病の神経衰弱の気分転換にどうだと、友人の俳 人正岡子規に勧められ、書いた小説が「吾輩は猫」である。旦那もいっていたが、猫のリズムはスロー、スロー、クイックの優雅なダンスの流れであって、犬の ようなせつろしさがない。尾の振り方をみても、犬は団扇を仰ぐように振り、吾輩らはゆっくりだ。それが身体にいい。

  小説の猫の主人珍野苦沙彌先生は後半になると、性格が明るくなり、前半と見違えるようだ。それも吾輩ら猫仲間との交友があったからだろう。小説の猫のモデ ルになった漱石先生の飼い猫は9月13日が命日。主人公の吾輩は漱石先生37歳の歳に夏目家に迷い込み、住み着いた。野良の黒猫。小説が世に出て3年後、小説のヒットにホットしたのか死んだ。

 漱石先生は親しい人に猫の死亡通知を送り、庭の桜の木に埋めた。小さな墓標には「この下に稲妻起こる宵あらん」と一句を添え、随筆「猫の墓」に死亡直前の模 様を書いた。  うちの旦那も吾輩の墓を庭の木の下につくってくれたのはいいが、1月の命日など忘れて遊びかまけている。漱石先生の鼻くそでもかじってほ しい。

 漱石先生は熊本時代、俳句の会を主宰している。うちの旦那も腰折れ俳句を詠むが、年賀状のための一夜づけ。学力試験結果の同様に並みの作に終わっている。漱石先生のレトリックにはかなわない。

  漱石先生は猫の句を数多く残しているが、恋猫を題材にしたのは6作ある。吾輩もあの声ははしたないと、思うが、恋の歌声なので当事者には美しく聞こえるの だろう。昔は猫の恋は春先と決まっていた。ところが、栄養事情もあってか、四季を通じて歌うようになり、もはや騒音に近い。漱石先生が熊本で詠んだ句

  のら猫の山寺にきて恋をしつ 漱石

 これに対してうちの旦那の句は

  屋根のうえ、飛んではねるか 猫の恋 征

 山寺の鐘がゴーンと鳴る木立の中で顔を触れ合う二匹の猫。実におくゆかしい漱石先生に比べて、旦那の句はあまりにも行為を意識したウラビデオ的である。俳句においても煩悩に支配され、美しさがない。旦那の悪口をいいだしたら、きりがないのでこの辺でやめる。

 スローな猫歩きにもどる。漱石先生の母校、錦華小学校前に「吾輩は猫」の記念碑が立っている。現在は千代田区お茶の水小学校前である。家は愛知県の明治村に移転保存され、当時のまどりのまま公開され、吾輩は東京へ来る前に立ち寄ってきた。

 家の間取りは玄関をはいると、右側に台所、左の八畳間が漱石先生の書斎。奥に6畳、座敷、茶の間、子供部屋など39坪(128平方㍍)の広さは当時の中程度の家というから現代よりも余裕のある住まいだ。道はさんで北に琴のお師匠さん宅があった。

 お師匠さん宅の美貌の雌猫三毛子が小説2話に登場する。主人の苦い顔をみたあと、異性の盟友を訪れると、心が晴晴する。女性の影響は実に莫大だなどと主人公は語っている。吾輩も旦那にどつかれて駆け上がった2階でベテイの顔を見て、同じ思いをした経験がある。ベテイはほれぼれする顔をしていた。近所の野良が胴長短足の洋猫のスタイルにあこがれ、誘惑にきたが、吾輩が追い払った。小説の二匹は近所の縁もあり

 「三毛子さん」

 「あら先生、おめでとう」と声かけあう間柄のガールフレンドで、主人公の片思いに終わった。三毛子は風邪をこじらせてあっけなく死んだ。主人公はショックで部屋にこもり、三毛子をしのんでいる。

 三毛子とは逆に近所の車屋の黒猫はべらんめえ調の口をきき、乱暴もので知られ、主人公猫は恐れている。小説の猫はこの2匹で、残りは珍野先生一家をはじめ、23人の人間が登場する。漱石先生の知人のモデルもいれば、創作の人物もいる。研究者はあれは誰といや違うなどにぎやかで、本筋を横に推理小説を読んだごとくさわがしい。

 珍野先生のモデルはいうまでもなく漱石自身、珍野の教え子の理学士水島寒月は五高の弟子寺田寅彦。10話で寒月は故郷で結婚するが、哲学者八木独仙、寒 月、、寒月友人の詩人越智東風ら4人による夫婦論、女性論はギリシャ哲学などからの引用が中心であるが、珍野の先生がまとめ役になり、座談をリードしてい る。漱石先生のノイローゼも小説を書きながら良くなっていくようだ。

 最後は猫の主人公が机のビ−ルをなめて、よっぱらい、目の淵を赤くして庭にで水がめに落ち、もがきながら吾輩は死ぬーと、つぶやくところで幕になる。漱石先 生は小説の猫が死んだとは書いていない。水がめから這い上がり、命は助かるか、それとも黄泉の国へ突進するのか、後世の研究者や作家で諸説にぎやかであ る。

 猫を水がめから救いあげた作家のひとりに漱石の弟子内田百聞がいる。「贋作吾輩は猫である」の中で、救われた猫は別の家にもらわれ、人間観察を繰り広げる。 このほか熱烈な愛国者になって渡米した猫もいれば、社会主義者になったものもいる。しかし、漱石先生は読者の判断にまかせたのではなく猫は死により、空高 く飛ぶ自由を与えたというのが経験者である吾輩の考えだ。

 ラストを再録すると、その真意がよくわかる。

 ―天地を粉虀(せい)して不可思議の太平に入る。吾は死ぬ。死んで太平を得る。なみあみだぶつ。ありがたい、ありがたいー

 吾輩も旅立つ直前、体がふいと浮き、そのままのぼっていった。漱石先生は猫を通じての死生観を描いたのにちがいない。吾輩も猫だ。自由だ。
     
          *     *

第138回  琵琶湖周航の歌100周年 波をまくらにルーツを訪ねる旅

  夏は琵琶湖。役所は移動の季節だ。おじさんたちが転勤のたびに歌うのが〽志賀の都よいざさらばーの琵琶湖周航の歌だ。私も2回の大津勤務でこの歌に送られ、しみじみとした気分に浸った思い出がある。

  若者よりもおじさん、おばさん好みの歌ながら、昨今は役所の退庁音楽にもなり、いまやご当地ソングの代表である。三高のボート部員に歌い継がれてきた周航の歌が今年、100周年を迎え、イベントが各地で組まれている。周航の歌碑を訪ねる観光客の姿を目にする。

  大津市三 井寺西の琵琶湖疎水取水口はレンガづくりの明治の建築である。三保が堰の名があり、湖岸を掘り下げてあるから、船が艇庫にはいりやすく、大学、高校のボー ト部の艇庫が並んでいた。現在は瀬田川沿いに艇庫は移動し、ふるぼけた艇庫が往時の姿をとどめている。道路近くの空き地に「われは湖の子」の碑が立ち、琵 琶湖周航の歌発祥の地と刻まれている。

     <写真1>

  大正デモクラシー の末期、ロシア革命第一次大戦勃発の100年前、1917年6月27日、旧制第三高等学校水上部(ボート部)のフィックス艇が早朝の琵琶湖へ漕ぎだし た。漕手6人、舵手1人の7人乗り。カッターをレース様に細身に改良し、スピードがでた。この日、ボートは琵琶湖西周りで周航、4日がかりの遠漕になる。 琵琶湖一周は陸上で180キロ㍍、湖上なら120キロ余の距離であるが、風や波の関係で時間のロスがり、漕ぐスピードもゆっくりのため、初日は雄松が浜 (近江舞子)、2日目は今津泊。今津は福井県境の若狭に隣接、冬は日本海の雪雲が流れ、積雪1㍍は珍しくない。3日目は琵琶湖の北を経て伊吹山を仰ぐ長浜、彦根。4日目は彦根を南下して近江八幡長命寺泊の無理のない日程を組んでいる。三高恒例の行事は、その後も京大に引き継がれ、70年代まで続いた。

  2日目の6月28日夜。漕手の小口太郎がみんな聞いてくれと、詩を披露した。これが周航の歌の誕生の瞬間になる。小口は信州から三高二部(理科)に入学、旧制中学でも諏訪湖でボートに親しみ、6人の漕手の要であった。この夜、1番と2番までしかできていなかった。6番までの歌詞が完成は秋になる。この詩に当時、学生に親しまれた「ひつじぐさ」のメロデーで歌うようになり、ボート部員の愛唱歌に育った。

  小口は今津から友 人宛にハガキを出し、ハガキの日付、消印は6月28日であることから周航の歌発祥の日になった。さらに参加クルーのひとりの証言により、周航の歌発祥の地 は今津も認知された。ただ作曲も小口によるものと長らく伝わり、作曲者の吉田千秋の名前までわかるのはずっと後のことである。

  それでは周航の歌の6番まで紹介する。カラオケやレコードは3番で終わり、彦根近江八幡竹生島は落ちていたから、地元でも3番で終わりと思う県民も多かった。

  1番 〽 われは湖の子さすらいの 旅にしあればしみじみと
       のぼる狭霧やさざ波の 志賀の都よいざさらば
  2番   松は緑の砂白き 雄松が里の乙女子は
       赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや
  3番   浪のまにまに漂えば 赤い泊まり火なつかしみ
       行方定めぬ浪まくら 今日は今津か長浜か
  4番   瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの竹生島
       ほとけの御手にいだかれて ねむれ乙女子やすらけく
  5番   矢の根は深く埋もれて 夏草しげき 堀のあと
       古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと
  6番   西国十番長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)
       遠くさりて
       黄金の波にいざゆかん 語れわが友 熱き心

  1、 2 番は即興の趣があり、4番以降はやや歴史や宗教性をおびている。雄松が里の乙女子は周航の途中、手を振った村の娘がモデルか。4番のねむれ乙女子は竹生島 伝説からの引用だろう。伊吹の神と浅井岳の姫神が高さを競い、負けた伊吹の神が姫神の首を切り落とし、琵琶湖に落ちた首が竹生島になった神話をもとに創作 したのか。5,6番はカラオケにはなく、まず歌うのはボート仲間か地元しかいない。長命寺は西国三十三番札所ながら6番歌詞では十番になっている。33番は語呂も悪いと10番にしたようだ。しかし、哀調おびた歌のラストを熱き心で締めているのは、味わい深い。

     

  周航の歌とよく間違われるのが「琵琶湖哀歌」。日米開戦の前、周航に出発した金沢の第四高等学校ボートが今津・高島沖で遭難、全員死亡した。レコード 会社が話題になった遭難にちなみ、東海林太郎の歌で吹き込んだ。メロデイが似ていて、周航の歌と哀歌がしばしば混同された。

  周航の歌が全国に広がったのは1971年の加藤登紀子のレコードからだ。それ以前にもボニージャックス、フランク永井ペギー葉山小林旭、意外にも都はるみもレコードインしているが、ヒットしていない。

  加藤登紀子学生運動で獄中にいた恋人藤本敏夫(結婚後死亡)が好んで歌ったことから、吹き込み、70万枚の大ヒットになった。大学紛争、70年安保後 の世相の波に乗り、知床旅情とともに人気を集めた。加藤自身も京大OBから曲や詩について取材し、歌に深みと広がりをもたせた。

  加藤は雑誌か新聞のインタービューでこう語っている。

  「歌を聞いてくださる客席のみなさんの顔にある種の感慨が現れるのですね」

  詩、曲だけ取り上げるなら文句なしと折り紙をつけるのをためらうが、歌にすると不思議な味が出てくる不思議な歌だ。若者たちと琵琶湖が生んだ傑作といえる。

  加藤はコンサート後、英国人から「故郷の歌をありがとう」と、礼をいわれて「ああそうか、イギリス唱歌が原曲」と、曲のルーツを思い起こした。

   作曲者の吉田千秋は新潟県出身。父は著名な地理学者の吉田東伍。子どものころから教会音楽に親しみ、大正4年、雑誌「音楽界」に「ひつじぐさ」を発表し て学生らのしるところになった。しかし、吉田千秋が周航の歌作曲者と認知されるのは最近である。NHK大津放送局アナウンサーの飯田忠義氏らのルーツ取材 で、これまで小口太郎作詞作曲の通説が修正され、作詞小口太郎、作曲吉田千秋と歌詞に書き込まれた。吉田千秋は24歳で早逝し、真相は80年もの間、眠っ ていた。

     
  新潟でも100周年の記念行事が開かれ、琵琶湖から離れた地域で周航の歌記念の催しが続いている。

  小口太郎は諏訪湖畔の岡谷生まれである。旧制中学卒業後、三高二部に入学、三高から東京帝国大学理科に入学した。通信部門の研究に取り組み、就職した研究所で電信電話に関する特許を取得した。8カ国におよぶ特許は小口の将来を約束した。

  ところが小口は26歳で若死にした。死因は自殺という。理由は親戚の女性との結婚が進まず、悲観しての死。しかし、家族によると、断ったのではなく小口に研 究で大きな成果を期待し、その後に結婚を考えていたらしい。諏訪湖、琵琶湖で青春を送った小口にとって社会における人間関係は複雑であったにちがいない。

  諏訪湖畔には京大OBの呼びかけで銅像が建立され、学生帽の小口の前には八ヶ岳諏訪湖が広がっていた。
     
      ひつじ草

          *