第76回  武士道にみる心とは −謙譲の美徳を訪ねて その3−

  平 安朝において桓武死後、公卿たちはあわてた。桓武の存在が大きすぎて、皇太子時代の平城天皇とは距離を置いてきたからだ。桓武の寵臣だった参議〈公卿〉・ 藤原緒嗣もそのひとりである。緒嗣は、桓武に可愛がられ、異例の速さで昇進を重ねた。父、藤原百川桓武が母、高野新笠の出自(渡来系の百済王族の血筋) のため、皇族の仲間入りも許されない不遇時代から一転、皇太子になる政変の立役者であったことが引き立ての理由である。姉の旅子は桓武の妻、甥の大伴皇子 は平城の異母弟にあたる。しかし、平城は父、桓武の意向を受けて動く緒嗣を快く思っていなかった。桓武の死で緒嗣はあわてた。そこでいち早く恭順の意を示 す進退伺いを上奏、人事のたびごとに、謙譲の美徳に散りばめられた辞職願を出し、その数は10回をくだらない。人事を批判するも、謙譲の美徳の言葉で巧み に印象を薄める策士ぶりを発揮した。他の公家たちも習った。
  平 安初期は平城、嵯峨両天皇とも退位すれば上皇になり、上皇辞意を再三にわたり上奏している。にもかかわらず嵯峨天皇上皇になっても影響力を誇示し、皇太 子の人事にも介入した。謙譲の美徳はあくまで建前でしかなく、上奏を受けた天皇も本位でないことを知っていたから、許可しなかった。
               
  嵯 峨天皇の時代は唐風文化の奨励で、風俗も唐にならった。都の町名も唐の町名が当てられ、現在の京都には当時のままの町名が残っている。謙譲の美徳の引用も 中国の故事によるものが大半であった。奈良時代に遡る皇位、官位をめぐる謙譲の美徳の表現が平安初期、中でも嵯峨朝においては多彩だった。
  中期になると、摂関政治藤原道長は謙譲の心どこ吹く風と権勢をほしいままにし、太政大臣の祝宴で歌を詠んだ。
  この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
  平安初期に流行現象までになった謙譲の美徳が男たちの口から語られることはなくなった。
           空海の書いた謙譲の美徳
  嵯 峨天皇の時代、空海最澄の平安仏教が幕を開けた。空海最澄桓武末期に遣唐使で入唐したが、最澄桓武の護持僧としての特別の短期留学であったのに対 して、空海は長期留学生であった。しかし、空海西安での修行を2年で終えて帰国、彼は真言密教の教えを広め、朝廷の信頼を得た。最澄と並ぶ勢いがあった。
                空海の風信帖(東寺蔵)
  空海は僧網(寺・僧の監督)少僧都の永忠から辞職願の代筆を頼まれた。
  在唐三十年の永忠は最澄と同じ船で帰国していた。空海は永忠の長安の住いを譲られ、帰国後は僧の地位でNO3の永忠から引き立てを受け、兄と慕う交流が続いていた。
  「海和尚、僧綱の任は年もとしで、とても勤まらない。辞仁したい。帝に言上しようと思うが、なんせ宮中の言い回しに慣れていない。海和尚は遣唐使のさい、唐の役人をうならす名文を書いている。ひとつ、帝への上奏文を書いてくれないか」
  「永忠師の漢文は本場仕込み。とても私などが」
  「いや、漢文であっても、内容は日本語。言い回し、そこが難しい」
  「わかりました。書きましょう」
  空海は代筆を引き受けた。空海の文が残っている。
   ―沙門永忠謹んで申す。去いんじ弘仁元年九月十七日の詔書に永忠をもって少僧都となせり。寵命天よりす(寵愛深いご命令が天皇からありました)。すなわち感綃かんてき(感激のきわみ)をいだいて誠惶誠恐せいこうせいきょう(おそれいります)す。永忠まげて程粮ていろう(特別の御仁慈)を費して実に非才を慙ず。歴任登用事、濫吹らんすい(才能がないのに俸禄を受ける)に同じ。況んや如今行年七十、筋骨劣弱にして窮きゅう途と(死期の近づき)まさにせまりなんとす。残ざん魂き余喘よぜん(余命いくばくもない)よく幾くの時をか得ん。すなわち僧綱の綱紀を弛ゆるし(職責をまっとうできない)、また統理の師表(人の手本になる)を闕かきてん。伏して願うらくは、足ることを知って罷まげ帰り(辞職)、静座して仏を念じてもって国恩を報ぜん。下情に任えず(真実の願い)。謹みて闕けつ(宮中)に詣でて進表以聞(天皇に奏上する)す。誠惶誠恐―性霊集第九に収録)。  嵯峨天皇は、この申し出を退けた優ゆう詔しょう(慰留)を出しているが、この詔も空海の代筆であった。
  僧たちの中で天皇の任命を受ける僧網らは、年齢がくると、伺いを立てた。謙譲の美徳である。天皇は、上奏を聞き流すかのごとく、退け、現状のままとするのが通例だった。
               武士の登場
  摂 関政治の末期は藤原氏一族の暗闘が天皇を巻き込み、奈良時代の末期に似た政治状況を生んでいた。そこに登場するのが御所の警護の北面の武士である。譲位し た天皇上皇になって院政を敷き、さらには白河上皇にいたっては法皇になり権力を持ち続けた。摂関の時代から権力も奪い返した。意のままにならぬは「鴨の 流れ」とまでいい、道長同様に謙譲の二字は心になかった。その力の背後に平家、源氏の武士たちがいた。
  朝廷では鳥羽上皇に譲位を迫られた崇徳天皇上皇になれず、鳥羽上皇崇徳院後白河天皇という図式の複雑な院政になるが、鳥羽上皇の死で崇徳対後白河の対立が保元の乱に発展する。
  鳥羽上皇の死の直後の模様が保元物語に綴られている。保元物語平家物語より早く書かれた軍記物であるが、保元の乱の顛末を敗者である崇徳院側から描いている。
  崇徳院左大臣に語る。「自分の身には徳がないといっても、十善の余薫にこたえ、先帝の太子に生まれ、世間の人情に薄いといっても万乗の宝位をもたいなくも我が物にした。私が天下を掌握することに何のはばかりがある」
  中国の故事にならう謙譲は影をひそめ、むしろ権力への執着をあからさまにしている。しかし、保元物語の筆者は崇徳院の言動に理解を示していた。当時の宮廷のおそらく世評であろう。
  こ の混乱期に一人の北面の武士が二三歳で出家した。西行である。崇徳院は、西行と親交があった。西行は讃岐へ配流される崇徳院に合い、和歌のやりとりをして いる。吉田兼好と並ぶ隠棲文学の生みの親である。世から身を隠し、世俗から離れた生活は、後代の精神文化に多大の影響を与えた。西行が謙譲の美徳について 書き残しているわけではない。しかし、西行の歌は、わびしさ、もののあわれ、平安末期の無常感がこもり、崇徳院との交流は敗者へのいたわりがある。吉田兼 好、鴨長明に代表される隠者文学のさきがけになった。
              愛と敗者へのいたわり
  鎌倉時代になり、謙譲の美徳は中国の引用から脱皮、日本の風土に溶け込んだ。孔子は謙譲の精神をおくゆかしさ、周囲へのいたわりの心として説いた。ところが老子は君子の徳としての謙譲を説き、孟子は惻隠の情の大切さを教えた。
  平家物語は冒頭で「おごる平家はひさしからず」と記しているが、これは平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」を受けている。平安期の官位をめぐる進退伺いの謙譲が武士の時代を迎えて、慢心のいましめ、敗者へのいたわりに変化したことを物語る。
  平家物語は「敦盛」のくだりで平敦盛と源氏の武将、熊谷直実が須磨の浦で一騎打ちのもようを描くが、敗者に対する「仁」、愛、寛容、あわれみの美徳にあふれていた。
                 平敦盛源平合戦屏風)
  逃げよ、という直実に敦盛は首を討て、と、拒み、直実は斬った。この戦い後、直実は武士を捨て、出家して巡礼の旅に出た。
  鎌倉初期に鴨長明が書いた方丈記は厭世と求道の随筆といわれ、冒頭から世の無常を語りかける。彼は謙譲の美徳について触れてはいないが、謙譲の美徳の真髄というべき一文を残している。
  いとあわれるなることもはべりき。去りがたき妻、夫持ちたるものは、そのおもひ勝りて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故はわが身は次にして人をいたわしく思う間に、まれまれ得たる食物をも彼に譲るによりてなり。されば親子あるものは定まることにて親ぞ先立ちぬ。
  彼は愛情が勝るものが必ず先立って死ぬという。なぜなら自分の身は二の次にして連れ合いを大事にし、食べ物さえ譲ってしまうからである。
  謙譲は心の在り様であるつつしみ、いたわり、さらには愛情にかかわるテーマになった。
  政権が武士になり、力で権力を手にした戦国期は、敗者への思いやりがある反面、一族皆殺しの殺戮もあった。秀吉から家康に仕えた藤堂高虎は、武士は勝たねばならないと、言い切っている。
               儒教江戸幕府の道徳規範に
               庶民に広がる謙譲の美徳 
  家 康の江戸開府により、政権は安定する。家康は朝廷を政治から排除する禁中並公家諸法度を制定した。徳川幕府は政権の正当性を天皇以外に求め、儒教を思想の 基盤にした。林羅山武家諸法度の起草し、幕藩体制下における道徳を説いた。羅山の朱子学陽明学と混合した独自のもので、もともと中国・宋から禅宗僧に より伝わり、禅と一体であったが、林羅山禅宗から独立の思想体系を確立した。
  家康の遺訓は有名である。
  人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかりを知りて負けることを知らざるは、その害、自分にいたる
  儒教の影響が遺訓に表れ、平家物語の冒頭の「おごる平家は久しからず」に共通する戒めを家臣に残した。
  朱 子学の儒教は戦国の終わりとともに存在の理由を失いがちな武士に忠義、道徳を説いた。統治のための思想である。ところが江戸開府から40年経過した元和年 間に、朱子学を批判し、儒教の原点である孔子に戻れという学者が登場する。奥ゆかしい、周囲へのいたわりの心の勧めである。
  中 華思想を排し、日本の風土にあった儒教を唱えた山鹿素行林羅山朱子学を学んだ素行は、赤穂藩主浅野長直に仕えるうち、朱子学に疑問を持ち、朱子学を批 判したため、江戸から赤穂藩に追放になる。素行は農民、職人、商人の三民の平安と生命を守ることこそ、生産手段を持たない武士の存在する理由であると、い い、中国崇拝を批判し、日本主義による孔子の教えによる「中朝事実」をまとめた。素行は武士に万民の模範になることを求め、視聴を慎む、言語を慎むなど、 道徳・教養の面でも自己を深めていく武士像を描いた。素行の教えは吉田松陰らに引き継がれ、幕末の尊王攘夷思想の流れをつくった。
  素行と同時代の学者で朱子学を批判したのが中江藤樹である。
  琵琶湖の西、高島は藤樹ゆかりの地だ。近江聖人の名のある藤樹は高島郡小川村に 生まれ、9歳で祖父の養子になり、高島城主加藤氏が伊予大洲に転封で伊予に移り、ここで朱子学に出会う。脱藩して郷里に戻り、農民相手の塾を開く。37歳 で王陽明全書を得て、思想に傾倒して日本の陽明学の祖になった。中江藤樹は塾で学問の意味、道徳の形式よりも精神に重きを置いた。
                中江藤樹
  「学者がまず慢心を捨て、謙譲を求めないならばどんな学問、才能があろうとも、凡庸な迷妄を越え出る資格がない」
  「謙譲は天の法」とまでいった。
  貴 族、武士、僧のたしなみであった謙譲の美徳は、人に欠けてはならない徳として位置づけられた。謙譲の美徳は藤樹以前、禅僧などから庶民に語られることが あっただろうが、藤樹は謙譲の美徳を最高位に置き、農民に説いた。藤樹の弟子、熊沢蕃山は郷里の岡山からの旅の途中の宿で、忘れ物を届けにきた馬子が謝礼 金を受けとらず、その理由を聞いたところ、「われらの藤樹先生は正直で謙譲の心を忘れるなと、子どもの頃から教えた」と、語り、感銘を受けた蕃山は藤樹に 弟子入りを決めたという。近江・高島の農家の子どもが謙譲の美徳を学んでいた。
  明治のキリスト教学者、内村鑑三は藤樹の謙譲の思想を絶賛している。
  内 村はその著「代表的日本人」でキリスト教倫理と中江の謙譲の美徳を比較し、イエスの「虚しくすること」の間に共通する美徳を指摘した。日本人の精神文化の 中に武士道にとどまらない倫理思想を見つけたのである。皇族、貴族階級の徳の政治、礼法であった謙譲精神は平安期には宮中の女たちのおくゆかしさ、たしみ になり、鎌倉期には武士に、僧の世界に、江戸時代には庶民に広がった。
               葉隠」が「鍋島論語」に
  江 戸中期、武士道と謙譲の美徳を説いた聞き書きが九州、鍋島藩(佐賀)で生まれた。藤樹から50年後である。武士の上下関係から、生活にいたる礼儀と心得を まとめた「鍋島論語」は、隠棲した上席藩士の口伝である。慢心を戒め、謙虚を勧める一方で、時には高慢であることを説いた。この相反する高慢と謙虚を使い 分けた「葉隠」は、『武士道とは死ぬことと見つけたり』で有名になるが、口伝の藩士山本常朝は死を絶対化せず、『生きること』の大切さも併せて説いていた。
                佐賀城大楠
  『人間一生誠に好いた事して暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮らすは、愚なるかことなり』
  謙譲の美徳についても
  『人を先に立て、あらそふ心なく、礼儀を乱さず、へりくだりて我がために悪しくとも人のためによき様にすれば、いつも初会の様に仲悪しくなることなし』
  こう戒めている。ところが、謙譲の美徳のみを持って日常をしばれば、その日々の修行のうちからその修行を乗り越えるような激しい行動はでてこない。高慢でな くてはならない、と正反対の心得を語っている。この矛盾に満ちた内容こそが「葉隠」の特徴である。「葉隠」が素行、藤樹ら儒教学者の道徳とは異なるところ だ。
  平安初期、謙譲の美徳の名のもとに官位ポストをめぐるへつらい、追従が繰り返された宮中の風景を思い起こしたい。謙譲の心には、建前が本音を隠す怖さを秘めている。国家、社会、会社のためにといいつつ、個人の利で動くといえば、理解しやすい。
  藤 樹、水戸学や山鹿素行吉田松陰らの思想に比べて整理されたものではなく、あくまで聞き書き、座談のまとめであり、鍋島藩においても異論があった。明治に なって新渡戸稲造の「武士道」が刊行されて再評価された。明治に活躍の政治家が武士出身だったことも見直しにつながった。
  稲 造は武士道5章で『孟子は惻隠の情は仁のルーツと教えた。かよわきもの、敗れたるもの、虐げられたものへの仁、愛情はサムライにふさわしい』といい、6章 で『礼儀は他人の気持ちを尊重することから生まれ出る謙虚さや丁寧さである。礼儀は他を思いやる心が外へ表れでたものでなくてはならない』と書いた。しか し、武士道は軍人勅諭教育勅語に採用され、太平洋戦争では玉砕のスローガンにもなった。「武士道とは、死すことと見つけたり」がすべてであるかのような 誤解からである。
  戦時中、哲学者の三木清満州を旅してこう雑誌に書いている。
  ― 礼儀は道徳の基礎である。礼儀をわきまえないものは、社会的道徳秩序の破壊者である。個人と個人との間においてのみでなく、国と国の間においても存在しな ければならない。礼儀の根底には謙譲の徳がなければならない。礼儀を重んじる東洋の道徳は謙譲を重んじるものである。そこに西洋の道徳、特に権利を重んじ る道徳とは異なる東洋の道徳の特色がある。中国、満州を視察して日本人の当地の人々への根拠なき侮蔑感、奢れる優越感を目撃した。日本人は礼儀正しい国民 として知られているが、日本人同士の間だけにとどまり、満州人やシナ人などに礼儀をわきまえないというこがあってはならないー
  『日本中華思想』への警告だった。
  昭和42年、私の記者生活2年目、大学紛争が火を吹き、ベトナム反戦運動が広がる中、三島由紀夫は「葉隠入門」を著した。三島にとって『葉隠』は「ただ一冊の本」とまでいっている。
               
  三 島由紀夫は著書「葉隠入門」で謙譲の美徳をほめそやしながら、殻をやぶる人間のエネルギーに目を向けた「葉隠」の二面性を称賛した。「男の世界は思いやり の世界である。男の社会的な能力とは思いやりの能力である。武士道は一見、荒らしい世界のように見えながら、現代よりももっと緻密な人間同士の思いやりの 上に精密に運営されていた」と、している。
  三 島由紀夫は「葉隠入門」を書きながら、高度経済成長と消費経済の日本を慨嘆し、前途に悲観的になっている。三島は東大安田講堂全共闘学生との討論で持論 を展開し、70年に自決した。「葉隠」の生と死、ふたつにひとつの選択は「死に急いだ」という厳しい批判を浴びたが、没後40年のいま、彼がこの本で展望 した日本社会の予測は的中していた。三島の自決を離れて、「葉隠」を読み返して気づくのは、相反する二つの命題に直面しているのは江戸時代も今日も同じだ ということである。選択して行動する難しさも共通する。
  日本は経済大国として世界NO1になった時、謙譲の心を世界に語るべきであった。西洋優越主義、中華思想ではないアジアの心である。謙譲の美徳を書くきっかけになった元総理の鳩山さんの「愚か者発言」に戻り、この回を終わりたい。鳩山さんには、こう云ってほしかった。
  「愚 かな首相で結構。愚かなことを恥じるつもりはない。謙譲の美徳ということばが日本にはある。へりくだるという意味ではない日本の誇る精神文化である。思い やりの心。挑戦と謙譲の心。それは国と国との関係にもあてはまる。マキャベリは謙譲の美徳を評価しなかったが、私はその心こそ国際間の課題解決に必要と思 う。それを愚かというなら喜んで甘んじるつもりだ」
  さて、マスコミはどう受け止めるだろうか。(終)

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