第77回  さらば小太郎(猫) 「我輩は永遠の旅に出た」

  ==10数年共に過ごした愛猫「小太郎」への鎮魂歌==

           旅立つ3時間前の小太郎
  我 輩は10年余、世話になった旦那とママの家をあとにして雲の上、旅の途中である。黄泉の国を目指している。西方浄土の国だ。体調がおかしい、と、気づいた のは、昨年の秋頃である。水がやたらに、ほしい。コップ3杯の水も足りないくらい。我輩が旦那と呼ぶ世話役、家の主人は「お前の小便のおかげで、日に何 回、猫砂を代えるか知っているか」と、いやみをいいながらも、後始末をしてくれた。どうも腎臓がやられたらしい。食欲も落ちた。ママが缶詰をいろいろ、買 いそろえた。フランス風のテリーヌとか、白身の魚、スープ状など豪華なものばかりだ。最初はうまい、と食べたが、続かなかった。
  3 匹の猫仲間ベテイやボンは我輩の残した缶詰にむしゃぶりついていた。「小太郎親分、ごちです」と、お愛想をいっては我輩を喜ばした。やっと、礼儀がわかる 子分になったと、ほくそ笑むが、食欲は戻らない。朝晩の冷え込みが始まり、日中の陽だまりで寝るのが、楽しみになった。
  忘 れられない思い出は、秋深い、ケヤキが葉を落とし始めた11月末。旦那がケヤキの枝を払っていた。窓から3匹が見物していると、突然、梯子が揺れ、旦那は 「ワッア」と大声をだして、墜落。高さは2㍍はあった。ボンなんか飛び上がっていた。笑うに、笑えないとはこのことだ。しばらく動かなかった。ママが覗き 見していたが、旦那が顔をあげたので安心したか、噴出してしまい、その笑い顔を旦那が見ていたから大変である。怒り心頭、我輩など「この夫婦の絆はこれま で」と、思ったほどだ。
  ケ ガもなく無事だったが、我輩の方は、12月の寒波がこたえた。食欲も半分以下になり、こたつに潜り込んで寝る日々。「もう終わりかもしれない」と、思う と、せつない。ボンやベテイは飛びまわっている。我輩の体調を気遣うそぶりもみせないが、たまにベテイが我輩のそばにきて、顔をなめてくれる。旦那が我輩 を抱いて「小太郎、骨と皮ではないか」と、驚く。我輩の前にいたモモコ大姉も最期は水も飲まなかった。医者にみせても効果なく、スポイトで水をやったが、 いやがったという。我輩も同じだ。正月には横浜と西宮の長男、次男一家が来る予定で、正月の団欒の仲間に加わりたい。
  猫 族は、死を前にすると、ねぐらを出て、行方をくらますというが、あれは、猫に限らず、人間以外の動物は重い病にかかると、食事をとらず、静かなところで養 生するからだ。食べたりすれば、栄養がビ−ルスのえさになり、やつらが元気づく。回復すると、ひょっこりねぐらに戻るが、多くは帰らぬ猫となる。人間は点 滴や無理して食べたり、飲んだりするが、あれは逆効果で、回復にはならない。延命はしても、長くはない。
  我輩は、正月の間、水、食事のすべてを絶って、寝ることにした。
  「医者は休み。見せても、同じだろう。ここは小太郎の生命力にまかせよう。モモコも水なしで5日、もった。覚悟はしようか」
  夫婦の会話が聞こえてきた。正月3日間、2階の部屋で眠り、ふらつく足取りでトイレに立つが、小便もでない。時おり、旦那や孫たちがのぞきにきて、体をさすってくれた。
  寝ていると、体がふわっと、浮く感じがする。旅立ちの日が近い。浮揚感に襲われ、このままだ、と思うが、まどろみから覚めた。
  4日朝、長男、次男一家は帰っていった。我輩の足、手の感覚がない。ママが触り、「手が冷たい。湯たんぽを入れてやろう。コタさん、元気になりや」と、いってくれるが、声もでない。目で感謝の気持ちを伝えた。
  我 輩はまどろみの中で暗い夜道で拾われ、この家に来た幼き日を思い起こしていた。糞まみれの体でフロに入れられ、湯につかった感動は忘れもしない。旦那の仏 教の本を盗み読みしたくだりにこんなのがあった。大乗経典のひとつで維摩経という教えは、善悪、生死、全く対立するものを「不二」とみなし、その「不二」 の門に入れば、なにものも束縛のない自由な境地にはいることができる、と説いていた。その時は、わけのわからん話をするもんだ、とあきれたが、いま、まど ろみが深くなるにつれ、我輩の先輩猫の故モモコ大姉の顔が浮かんできた。「小太郎、待っているよ」と招いている。ひよっとすると、我輩は不二の法門の前に いるのではないか。自由への旅たちか。お釈迦さんは、我輩にも門を開いてくれた。生もなければ、滅もない世界が近づいている。
  5日夜は、旦那、ママの布団で寝た。6日朝、ママのそばでコタツから顔だけを出して、眠る。目は閉じない。旦那が体をさすり、声をかけてくれるが、意味不明だ。寒波の風が庭の梢を揺らしている。息がつまる。咳がでそうででない。体が軽くなった。
  おおっ「不二」の門の前にいる。旦那があわてて湯の飲みをひっくり返した。
  我 輩は永遠の旅に出た。どんどん体が浮く。昇っていく。雲の上だ。1月6日午後1時10分である。生まれ日はわからないから、正確ではないが、10歳10ケ 月の生涯だった。猫の寿命としては普通であるが、最近は猫も長寿社会に突入、13歳から15歳が増えているとか。ギネスブックの猫長寿は英国の34歳と4 ケ月、日本の青森には36歳の化け猫がいたらしい。正月、世話になった長男、次男にもお別れができて、思い残すことはなにもない。
  明治の文豪が書いた小説の猫はビールを飲み、ほろ酔いの気分で天国へ旅立つが、我輩は仏の道『不二』の門をくぐった。生じることもなければ、滅することもない道だ。
  格 好良く旅立ちのつもりで雲に乗って、住み慣れた我が家を見たとたん、里心が出て、家の中を見たくなった。ベテイ、ボンはどうしている。引き返して家を周回 しながら、中をのぞく。脱走した後、家に戻るのが、気がひけて、回りをなんどもうろうろしながら、旦那の声がかかるのを待った日がなつかしい。旦那も2 度、3度と脱走が続くと、我輩の姿を見ても知らぬふりして、いきなり体罰を加えた。
  我輩の遺骨の前に写真が飾ってある。我輩の肖像画がなんと額入りになっていた。旦那が描いた水彩だが、生前は2階の隅に置いたままだった。
          
  ベテイがカリカリを催促して旦那から嫌味を言われている。「小太郎が死んだとたん、おまえは食欲旺盛になったな。女は連れあいを亡くすと、元気になるというが、本当だな」
  そろそろ、我が家を後にして、旅立つとするか。名残りはつきない。別離はつらい。
  旦 那は常々、小説は別れと出会いの物語と、いっていた。夏目漱石の「坊ちゃん」の新橋駅での坊ちゃんと、世話をしていた女中のきよばあさんの別れがお気に入 りだ。箱根より西にいったことのないきよは坊ちゃんに「もうお目にかかることはないかも」と、いい、坊ちゃんを見送る。汽車が駅を離れ、坊ちゃんは窓から フォームを見ると、きょがぽつんと立っていた。「俺は泣かない。なくもんか」と、繰り返しつつ、旅の人になった。
  我輩の心境も同じだ。旦那やママ、それに子分たちがきっと見送ってくれているに違いない。泣けるじゃないか。人間は永遠の旅立ちにあたり、誰かを連れていくというが、犬や猫がお供をする例は多い。旦那の友人の妻は、可愛がっていた猫3匹を連れ出している。
  時間を置いて次々に猫がいなくなり、その友人は不思議な出来事と、仲間に語った。しかし、我輩は一人旅がいい。我輩は旦那、ママ、ベテイ、ボンの中に生きている。さよならじゃないんだ。みんなを守るのが我輩の役目である。
  広い空、どこへ行くか迷う。我輩らの先祖はアフリカ、欧州、アメリカ、アジアの海を航海した旅好きだ。船のネズミをとっ捕まえて、航海のじゃまものを腹の中におさめた。
  猫 なしには大航海時代も新大陸発見もなかった。さて、震災後の猫仲間を訪ねて東北・宮城の田代島へ飛んだ。翼があると、便利このうえもない。三陸海岸はいま なお震災の跡が生々しい。2年で復旧など無理というものだ。何十年もかけて積み上げた暮らしが2年で元に戻るなんてありえない。急ぐ気持ちはわかるが、こ こは辛抱の一言につきる。
           田代島
  田 代島は牡鹿半島の先端近い、周囲10キロ余の島だ。島の中央には猫神様が祀ってある。大漁の守護神として島の人たちが敬われている。蚕飼育時代に天敵ネズ ミ退治に功労があり、島に猫が大事にされ、マグロ漁の頃には漁師からマグロの残りをもらい、漁師と猫の友情さえ生まれた。猫のしぐさから天候や漁を占うほ どだ。宮城南部には猫神様が10ケ所残り、人と猫との絆は強い。旅好きの旦那が講釈していた。
  島は地震で1㍍余も沈み、被害を受けたが、幸い人、猫とも大事にいたらずにすんだ。震災の日、こんな出来事があったという。
  揺れが大きく、皆が避難する中、数ひきの猫をかかえた小学生の女の子が走り去った。複数の島民が目撃している。ところが、この少女は誰か、いまだにわからない。
  猫 神さんだ。島民はそう信じている。猫神さん、情の厚い漁師に守られた猫たちは幸せものである。島の一角で猫の集会が開かれていた。我輩も家を脱走して近所 の集会にでたことはあるが、縄張りや家猫の挙動をめぐる注文が大半だった。円陣を遠くから見て気づいたのは、集会の猫の中にしっぽが曲がっている猫がいる ことだ。尾の骨が折れた猫と思っていたが、旦那によると、あれは遺伝だというではないか。
           島の集会
  ベ テイに好意を寄せる野良が「お前ところの女、たまには出てこいと、云ってくれ」と、すりよってきたが、「あいつは俺の女で、お前とはサイズがあわん。バカ にしとった」と、耳元にパンチしてやった。その時、野良に噛まれた傷から菌がはいり、我輩の寿命を縮めたのかもしれない。
  男好きのベテイは野良のちょっかいをまんざらでもないらしく、野生の魅力に心を動かしていたから、我輩もつい、対抗心から意地になった。
  東北を離れ、日本を西へ、目指すは長崎の壱岐。ここで弥生時代の猫の骨(大腿骨)が発見された。我輩の先祖に違いない。九州の島は猫が多い。古代からの伝統か、大陸との交流で世界の猫が集ったためか、我輩にはわからない。
  「九州出身の猫はへそ曲がりならぬ尾曲がり」と、聞いている。我輩の尾はまっすぐ長い。九州の猫は尾が曲がっていることを確かめるのが、翼をもらった我輩の文化猫類学のフィルールドワークになる。
  福 岡の相島。博多の北、玄界灘に浮かぶ周囲6キロの島である。人間は縄文時代から住んだという歴史があり、朝鮮半島と関連する史跡は島の随所に散見できる。 江戸時代の朝鮮使節史が滞在した館跡も残る。ここは別名、猫島と呼ばれ、大学生が猫の生態研究の拠点でもある。我輩にとっても研究心を駆り立てる島だ。
           相島
  島の回りは風光明媚なうえ、漁場のため、猫たちは生の魚を漁師からもらい、実に優雅な暮らしだ。我輩は生ものは口にしなかったが、実にうまそうに魚にかぶりついている。
  我輩などとても生きていけない環境だ。孤独を好み、思索に浸る時間が長かった我輩には集団生活のわずらわしさは、子分2匹との生活で経験済みだが、この島の猫たちは、集団生活を楽しんでいる。
  猫 の尾に注目する。京都大学の野澤謙名誉教授の研究では京都、滋賀、福井の猫の尾はまっすぐで、全体の1割超にとどまるが、東京は5割。ところが九州は尾曲 がり猫が多い。トップは長崎79・8㌫、熊本、宮崎、福岡、佐賀、鹿児島と続き、6割以上が尾の曲がった「かぎしっぽ」猫である。
  日 本猫のしっぽはもともと、まっすぐだった。ところが江戸時代になると、浮世絵の猫は尾曲がりに描かれている。この理由は海外から猫が貿易船に乗って上陸 し、尾曲がりが増えた。九州や関東に多いのは、長崎や茨城の港に積荷を降ろし、そのまま猫も住み着いたためだ。長崎は貿易の拠点港で、東インド会社のあっ たジャカルタからの荷には必ず、猫を乗せ、ネズミ退治をさせたことが文献に登場する。
  長崎には「長崎猫」の研究する学会もあるそうだ。東南アジアの血と日本古来種の血が交じりながら、長崎猫は東南アジアの特徴である尾曲がりを受け継いでいる。研究会は長崎猫の調査とあわせて、住みよい猫社会づくりを会の目標にしている。
  長 崎さるく。町をぶらぶら歩くことを「さるく」するという長崎の方言だ。物見しつつ、かねがね旦那が料理なら長崎の卓袱(しっぽく)と云っていたのを思いだ した。円山の料亭の2階をのぞく。坂本龍馬ゆかりの老舗である。円卓に料理が並んでいる。卓袱は和華蘭(わからん)料理といわれるように、和食、中華、洋 食が一体になった料理で、食べ方は中華風にそれぞれが自分の箸で大皿や鉢の料理をとって食べる。最初に「お鰭(ひれ)をどうぞ」の声を合図に碗からあける 以外に、作法はない。あとは自由きままに食べる。気楽に料理を味わう。海鮮風から豚の角煮まで20種近い料理が円卓に並ぶ。我輩には豚の角煮が魅力的だっ た。締めはなんと猫マンマ。だし汁をご飯にかけて食べる。我輩には幼き日に通じる思い出の料理だ。哺乳瓶ミルクから離乳食がママの猫マンマ。野菜と魚をと ろとろに炊き、それを食べた。うまかった。我輩がカリカリという固形食を嫌うのも幼少の経験からである。猫マンマの香りは故郷の人たち、猫たちに通じてい る。
           卓袱料理
  九州まで来たついでに、我輩は世界へ飛び立つことにした。さらばJAPAN。


















               *