第78回 秀吉は醍醐花見で何をみたか

  〜重文屏風に描かれた豪華絢爛の絵巻〜

  関 西の桜は九州、関東に比べて開花が遅く、ようやく見ごろを迎え、満開は7日前後になるだろう。歴史に残る最大の花見イベントは太閤秀吉の醍醐花見をおいて ない。千葉・佐倉にある国立歴史民俗博物館所蔵の「醍醐花見図屏風」に描かれた花見風景は、準備の期間、金をかけた空前絶後の宴であった。
  京の東山連峰の東に位置する山科盆地は大津市宇治市に 接し、京の三条へ続く東海道が逢坂山を越え、追分で奈良街道に分れる。街道を南に行くと醍醐寺の総門がある。醍醐寺は醍醐山(標高450㍍)の麓から山頂 にかけて伽藍が並び、山手を上醍醐、麓を下醍醐といい、総称して深雪山醍醐寺と呼んでいる。世界文化遺産に登録の古刹である。いまから1040年前、平安 時代(貞観16年)に空海実弟、真雅に学んだ聖宝(しょうほう)が山で翁に出会い、翁は谷の水を飲み、「醍醐味かな」とほめたあと、衆生救済を聖宝に託 した。この霊水が醍醐寺の源である。醍醐は最高の味を意味し、仏教では最高の真理にたとえられる。
           重文屏風の秀吉(国立歴史民俗博物館蔵)
  1598年(慶長3)3月14日(旧暦)夜。春の嵐を思わす雨風が強かった。秀吉の5奉行で、寺社奉行京都所司代前田玄以は、なんども外の模様を確かめ、眠れぬ夜を過ごした。明日は、太閤花見の日であるからだ。
  秀吉は大阪城から伏見城へ移ったあと、醍醐寺をたびたび、訪ねていた。座主義演は関白の座を秀吉に譲った二条晴良の息子である。その縁で秀吉は義演を援助し、応仁の乱で荒れた寺の復興を約束していた。
  玄 以が秀吉から花見奉行を命じられたのは1年前の3月。秀吉は伽藍の再興とあわせて、境内に桜の花を植え、花見の宴を開くよう指示した。玄以は近隣から桜の 木700本を運び、総門から仁王門の350間(637㍍)に移植した。その花が咲いたばかりだった。雨で散っては1年の苦労が無駄になる。この日に備えて の準備は言葉に表しようがない。寺の周囲には23ケ所に検問を設け、鉄砲、槍で武装兵を配置、男の出入りは一切、禁止した。
  慶長元年9月1日、伊予地震が発生した。M7の規模である。同4日には豊後(大分)地震に見舞われ、瓜生島・久光島が津波で沈んだ。さらに翌日には伏見大地震が起きた。伏見城天守閣、石垣、方広寺大仏殿が崩壊した。余震は翌年の春まで続く。
  秀吉は関西、四国、九州が被害にあっている最中の慶長2年、再度の朝鮮出兵を思い立った。最初の朝鮮出兵は文禄元年である。出兵は1年で休戦になり、西国大名は一息入れたばかりだ。しかも地震の被害が重なり、まさかの出兵に不満がないといえばうそになる。
  晩 年の秀吉の言動には多くの研究者が首をかしげる。国内の不満を外にそらす統治手法は珍しくないが、明が背後にいる半島での戦端は、文禄の役以上の困難が伴 い、しかも大義に乏しい。国内では、家康はじめ、諸大名の中には不穏な動きが見られ、秀吉後をにらんだ駆け引きが始まっていたからである。
  出 兵発表後の醍醐花見計画は、勝利を見越しての宴のつもりであったのかもしれないが、戦況は膠着状態に陥り、現地では石田三成らの作戦に批判が渦巻いてい た。出兵した西国大名に比べて、派兵しなかった家康が力をたくわえていた。内と外で政権基盤が揺らぐ中で花見準備は進む。
  秀吉は6年前、吉野山で5日間の花見宴を開いていたが、吉野は遠すぎる。伏見に近い醍醐は警備の面からも安心できた。秀吉の健康不安からくる政権内の確執を抑え、天下に力を誇示する意味でも醍醐の花見は格好の舞台になった。
           醍醐しだれ桜
  翌15日は絶好の花見日和で迎えた。旧暦15日は新暦の20日前後にあたり、花は散り始めていただろう。
  行列は午後1時、三宝院を出発する。前田利家福島正則ら大名と座主義演を先頭に、秀吉の輿が進む。そのあとは北政所、秀頼・淀らの輿、きらびやかな衣装の女たちの行列が延々と続いた。
  女 たちの衣装はこの日のためにあつらえた摺箔、かのこである。秀吉に距離を置く九州の島津義久は、秀吉から花見の女たちの衣装担当を命じられ、1300人の 着物、それも2度の色直し分の3千着をあつらえた。現代では一着100万円はくだらないというから、単純計算でもざっと39億円に相当する。摺箔は生地に 漆などで模様を描き、その上に金箔を張る技法。現代では能の女役の衣装に見ることができるが、当時は最高の晴れ着だった。かのこは数ミリ単位でしぼり、一 着に必要な結び目は数万におよぶという繊細な技法で、在原業平が歌に詠んだほど色鮮やかな伝統の染めである。島津家の財政は出兵戦費とこの出費で底をつい た。
  花 見奉行の玄以がもっとも頭を痛めたのは、女たちの序列である。北の政所は最初であるが、側室の順番は淀(茶々)、松の丸(京極竜子)、三の丸(信長娘)、 加賀殿(前田利家娘)の順になった。中でも松の丸は京極家出身で浅井家の主筋にあたり、若狭の武田元明に嫁ぐが、元明が光秀に与して捕らえられるも、秀吉 に美貌をみそめられ、側室になった。秀吉は秀頼誕生後も竜子を可愛がり、また北政所とも親交深く、淀とは側室NO1を張り合っていた。花見宴でもふたりは 盃の順でさや当てを演じた。
  前 田家の家臣村井重頼の「陳善録」によれば、秀吉の盃を北政所の次にどちらが受けるかでふたりは向き合い、同席した前田利家の妻まつが間にはいり、その場を おさめる一幕があった。秀吉は女の争いにそ知らぬ顔で楽しんでいたという。もっとも、伝聞による記録のため、その場をおさめたまつを持ち上げた印象はぬぐ えないが、ありそうな話であった。
  秀吉は玄以に命じて8つの茶屋を造らせ、ここで休憩した。第一茶屋は五重塔近くにあり、第二茶屋は池に鯉、鮒を放し、漁師姿の男が秀吉や秀頼、北の政所、茶々らを前に鯉、鮒をすくっているもようが屏風に描かれている。
           重文屏風の秀吉(国立歴史民俗博物館蔵)
  と ころで花見の風習は、奈良期において中国古来の梅の花が対象になった。万葉集の歌にも梅が多く詠まれ、平安期になり、桜が逆転する。古今和歌集では桜の歌 が7割を占めた。記録の初見は812年(弘仁3)の嵯峨天皇の花宴の節。以来、宮中の定例行事になり、源氏物語などに登場する。伊勢物語82段は鷹狩りの 惟喬親王一行の酒宴で右馬頭なるものが詠んだ歌を綴っている。
     世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけらまし
  右馬頭は在原業平のことである。この歌に一行のひとりから注文がついた。
     散ればこそいとど桜はめでたけれ 浮世になにか久しかるべき
  咲く花、散る花への思いが歌のやりとりに込められ、しばしば引用されてきた。
  鎌 倉時代から室町時代には武士たちも花見を楽しみ、都離れた地方でも花見の宴が開かれた。桃山時代になると、庶民の間にも物見遊山の花見が普及しはじめ、秀 吉の花見は、花をめで、散るを惜しむ宴からにぎやかに楽しむ花見の転換点といえた。酒席、茶席、歌会なんでもありだった。
  醍醐寺座主の義演はこの日をこう記している。
  きょう、太閤御所渡御せられる。女中各御なりあり。終日、花ご遊覧す。筆舌につくしがたく、一事の障碍なく無為に還御せられる。一寺の大慶、一身の満足なり。
  義演は秀吉の時代が終わることを感じていた。英雄の最後を飾る舞台を用意したのだろう。醍醐寺霊宝館には秀吉らの短冊、天目茶碗が残っている。庭のしだれ桜は、後世のものであるが、豪華絢爛の花見の日をたぐりよせる。
  国 宝金堂は、秀吉の発願で建立、死後に完成した。国宝五重塔は花見を機に修理され、醍醐寺創建時の姿を今に伝えている。花見行列の出発した座主の居宅、三宝 院は秀吉が整備し、庭に面した表書院は桃山建築を伝える国宝である。庭には、「藤戸石」が据えられている。源氏の軍勢が平家を追い詰めた備前・藤戸におい て武将佐々木盛綱が一番乗りを果たした浅瀬にちなむ石。秀吉が花見のため、聚楽第から移した。細川邸にあったものを、入洛した織田信長が二条邸に運び、さ らに秀吉が聚楽第に移したことから天下石の名がある。両脇に小さな石を配し、阿弥陀三尊を現した。しかし、この石は、能「藤戸」では悲劇の石である。盛綱 は浅瀬を教えた漁師を切り殺した。浅瀬を見つけ、勝利へ導いた手柄を独占する功名心からだった。漁師の母から責められた盛綱が霊を弔うと、亡霊が恨み言を 言いつつ、成仏する話だ。勝利の陰には殺戮があった戒めなのか、武士たちは、この石を好んだ。
           藤戸石
  秀吉が花見のために石を移した理由は、「天下石」の名もあっただろうが、散る花の風情に見る華やぎと無常、光と影、栄達のなかによぎる悔恨の思いがなかったとはいえない。
  秀 吉は花見を終えて、体調を崩し、8月、伏見城で62歳の生涯を閉じた。東西決戦の関ヶ原の戦いはそれから2年後である。醍醐の花見から見えてくるものは、 朝鮮出兵地震をよそに繰り広げられた花見行列に対する政権内の冷めた目である。戦や花見の出費で疲弊した西国大名たちのしかめ顔だ。秀吉の死を待ってた ごとく半島から撤退したことでもわかる。国内で満を持した家康が圧倒的有利にならなかったほうが不思議だ。家康の人柄、手法が西国大名に嫌われた。三成、 家康の両陣営は直系を除けば、関ヶ原は模様眺めが大半であって、経験に勝る家康に戦況が有利に傾いた。明治に軍事顧問として来日したメンス・メッケル少佐 は、陣の配置図を見て即座に西軍の勝ちと、断言したほどだ。
  醍醐の花見を仕切った前田玄以は西軍の要であったが、開戦前に大阪城を去り、屋敷に閑居していた。誰よりも醍醐花見の裏を見た玄以は、散る花に豊臣政権の終焉を予測したのである。
  今年も4月の第二日曜日、太閤花見行列が醍醐三宝院を出発する。
           現代の太閤行列

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