第84回  ♪夏がきたら思い出す 幻のツチノコを追って

  〜日本未確認動物はどこにいるのか〜

  ツチノコの話は、いつもながら京都が発端である。昭和34年、一人の渓流釣りの男が北山の夜泣峠を歩いていた。突然、前を黒いものが飛んだ。蛇に似ているが、形は頭が大きく、初めてみる異様な姿に立ちすくんだ。
  私 が社会部の駆け出し時代の夏、暑い京の町を避け山で過ごしたいサボり心も働き、北山の自然と人、動物をテーマに「きたの山」の連載を企画した。社会部3年 足らずの若造は北山を歩きながら汗と、取材時間のなさにあせっていた。日常取材の隙間で連載を書けという命令に、その時は「やってやらぁ」と答えたが、初 めての連載企画のため、要領もわからず、場当たり取材は難航した。そんな日々に出会ったのが山本素石(故人)さんだった。
  「北山か。おもろい話しようか。ツチノコや」
                北山
  山 本さんは随筆と渓流釣りの世界では有名人だった。全国の渓流を仲間と回り、毛鉤を飛ばして釣るテンカラ釣りを広めた。山本さんは、夜泣峠のツチノコの出会 いをきっかけに「ノータリンクラブ」(能足りん)を結成、ツチノコ捕獲に乗り出していた。まだ雑誌や漫画でツチノコがブームになる前である。
  「調べてみると、夜泣峠の動物はツチノコとわかり、全国から情報を集めた。あるはあるは、東北から九州まで広がっている。それも古事記日本書紀に記載された実在のへびというではないか」
          夜泣峠のお地蔵さん
  クラブのメンバーは釣り仲間であったが、噂を聞いたイマキンさんこと故今西錦司さん(当時岐阜大学長、京大名誉教授)も加わった。イマキンさんはメンバーの岩魚山人こと坂井久光さんの山仲間。イマキンの山行きには坂井さんが同行するほど親しかった。坂井さんは、勤めは京都市交通局ながら、休日のすべてを山にあて、全国の一等三角点(見晴らしのいい地点45キロごとに設定)を制覇し、一等三角点会の初代会長。全国の山また山を登り、ツチノコ情報をかたっぱしから収集した。山本さんと坂井さんあってのノータリンクラブである。
  ク ラブのツチノコ探しの最初は夜泣峠。洛北・貴船川清流の奥にある渓谷を登って40分で峠に着く。木の祠にお地蔵さんがあり、峠の由来が書いてある。平安初 期、文徳天皇の長子惟高親王(後継争いに敗れ、洛北に隠棲)が幼児の頃、乳母に抱かれて峠を越えるさい、夜泣きしたため、乳母がお地蔵さんに祈った故事か ら名がつく。北山の峠道にも歴史が伝わるところはいかにも京都だ。山本さんらは全国の情報の中からツチノコの好物を選び、おとり籠にヒヨコ、スルメ、日本 酒などを入れて、待ち受けるがツチノコは現れずに終わり、捜索範囲は近畿、中部、四国、中国地方へ拡大していく。山本素石さんをモデルにした田辺聖子著 「すべって転んで」が発刊された。
               ツチノコ探し
  山 本さん取材はちょうどこの頃だった。社会面連載は「北山と幻のツチノコ」をから始まり、反響を呼んだ。部長から「時間をかけて続編を書け」と、いわれ、そ の後は山篭り(実際は遊んでいた)して北山を彷徨、山の里の人たちと知り合った。涼しさは格別でかやぶき家の夜は冷えた。私の記者生活の原風景は町でなく 山の中、社内では変人の仲間入りした、いまはなつかしい思い出の地である。
  連載の翌年だったと思うが、矢口高雄が少年サンデーに漫画「幻の怪蛇バチヘビ」を連載、ツチノコブームが巻き起こった。「釣り吉三平」で有名作家になるのはこの後だ。
  バ チヘビというのは東北地方のツチノコの名称。近畿以西はツチノコが多い。ほかにノズチ(野槌)、タテクリカエシ、ツチンボ、土転、ゴハッスン(五八寸)な ど40種の名称がある。1973年(昭和48)、ノータリンクラブと東京・西武デパートが提携、「手配書」ができ、西武デパートは生け捕りに賞金30万 円、遺体10万円、写真6万円を出すことになった。これが後に自治体の破格の賞金(最高3億円)騒動の発端である。
  坂井久光さんは山村民俗会の会員でもあったから、歴史や民俗資料、住民からの聞き取りでツチノコ資料は山ほどあった。しかし、捕獲した話は、途中で不思議に消えていく。
  捕獲の知らせにノータリンの面々がかけつけると、一足違いでいなくなる。昨日まであった死体がなくなっていた。
  ツチノコ目撃の地は奥山、清流の萱場の近くで共通していた。
  「頭が大きく、胴は太く尾は短い」「柄のない槌の形」
  「2㍍も飛びあがった」
  「酒が好きだよ」
  「チチィと鳴いてすばやい」
  「尺取虫のように体を屈伸させて進む」
  猛毒を持ち、すさまじい臭いがし、はては大きないびきをかく目撃談もあった。
  いずれも確認の手前で幻のごとく消えていくのが特徴である。
  目撃された自治体は村興し、町興しと称して、探検隊を組織、捕獲者には多額の賞金を出すところも出て、ツチノコ騒動は社会現象になった。1988年(昭和63)、奈良の下北山村の捕獲作戦には全国から230人が参加、マスコミは新聞、TV、雑誌29社が取材に駆けつけた。自治体の賞金は高騰し、兵庫県のある町は3億円の賞金を準備した。賞金のほかに別荘地100坪をつけた町や和歌山のすさみ町は賞金とは別にイノブタを副賞にした。
               
  ツチノコが文献に登場する最初は、古事記日本書紀である。カヤノヒメの神、ノズチの神として野の精霊として記されている。ノズチ(野槌)はツチノコであ り、蛇信仰と結びつく。鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」)は叡山の2人の僧が死んで生まれ変わった時、その所在を告げることを約束。口達者な僧が槌形の蛇 に生まれ変わるも、目も手足のない口だけの姿になったという。野の神、カヤノヒメは仏教説話の戒めになり、ツチノコ神仏習合のさきがけである。
  江 戸時代になると、ツチノコは姿が絵になった。江戸時代の百科辞典「和漢三才図」(寺島良安著)は生息地に吉野山の菜摘川、清明滝をあげ、深山の木の穴に棲 み、体長3尺(約90㌢強)、胴回り5寸(15㌢)、人をみると、坂を転がり、人の足にかみつくので、逃げるさいは高いところを選べと、書いている。
          江戸時代のツチノコ
  江 戸中期の浮世絵師、鳥山石燕は妖怪画「今昔画図続百鬼」を残しているが、その中にウサギを大口あけて食べる野槌を描いている。三才図の芋虫ようの絵と違 い、ツチノコが絵になった最古といわれている。江戸時代は目撃談も藩誌で取り上げられ、尾張藩紀州藩の記録がある。尾張藩の「濃陽史略」にはこうある。
  恵那郡加子母村の彦七なるものが、竹やぶを分けて歩いていたところ、足が重く、冷たい。足下を見ると、太さ1尺ばかりの鰹節の形をしたものがおり、黒く光っていた。山を下り、里の老人に問えば、野槌というものなり、と、教えてくれた。
  飛騨地方はツチノコが江戸から現代まで数多く目撃された多発出没地域である。そのはずで時代は縄文時代までさかのぼる。茅野市の尖石考古館に展示の縄文土器には平な頭、カエルのような足のない動物の姿があり、これがツチノコらしいという。似たものは飛騨民俗館にもある。
  岐阜県東白川村岐阜市内から75キロの山の中の村である。村の中心を白川が流れる里は、奈良の下北山村、広島の上下村とともにツチノコ共和国を宣言、毎年、ツチノコフェステイバルを開催している。白川茶の産地の東白川村はお茶とツチノコで全国から注目の村になった。村にはツチノコ目撃は昭和の初めから20件あり、わが村こそツチノコの本家を自負している。村民には「ツチノコ通達」が役場から出ている。
  ―ツチノコに出会ってもあわてないこと。音を立てない。二人組で挟み撃ちにし、カメラで撮影後、捕獲棒を使い、すきを見て網をかけ、大声で人を呼ぶー
  ツチノコに遭遇してそんな余裕があるかどうか疑問であるが、賞金100万円のほかに副賞も用意して村民を啓発してきた。槌の子神社を祀り、資料館もある。お土産にはツチノコクッキー、絵馬など槌グッズを並べ観光の柱にしている。しかし、捕獲の話はまだない。
  四 国からはツチノコ退治の話が届いた。愛媛県高縄山で地元住職が女性4人とワラビ採りに出かけたところ、いきなりツチノコようのヘビに飛びかかられた。住職 は柔道5段の腕前で、悲鳴をあげる女性の前に仁王立ち、ヘビを振り払い、ヤァッとばかり遠くへ投げ飛ばした。この話を聞いた関係者は一様に「おしい」と、 くやしがったが、探してもみつからず、住職の武勇伝だけが残った。
  平成年間になると、捕獲の話が新聞に掲載されだした。兵庫県美方町で はツチノコに似たヘビが見つかり、地元で飼育されているという。愛称「つーちゃん」。しかし、妊娠して胴の膨れ上がったニホンカガシ。卵を産むと、普通の ヘビに戻った。マムシの妊娠説やネズミを飲んだヘビナなどヘビの一時的な異形がツチノコとする学者の見解も発表されたが、まだ見ぬツチノコへの関心は強ま ることはあっても弱まることはなかった。
  続々と届くツチノコ情報は、写真付きが増え、これぞ決定版といわれたのが岐阜県中津川市の 死体である。写真を見た誰もがびっくりした。ツチノコそっくりの姿。ところが専門家の鑑定で外国産のマツカサトカゲとわかる。1970年代後半にペットと して日本に持ち込まれ、捨てられた可能性が高い。さらに飼いやすいペットで人気のオーストラリア産のアオジタトカゲはツチノコ似ており、研究者はこのトカ ゲの輸入時期とツチノコ目撃多発が重なるため、ツチノコは捨てられたペットトカゲ説を唱えた。
  果 たしてツチノコの正体は。どこにいるのか。新聞記事をスクラップしながら、それにしても文献の絵や目撃談の頭の大きい特徴はトカゲと似て非なるものだ。し かも江戸時代の目撃談は、外国トカゲで説明がつかない。転げる、飛ぶなど状況描写さに詳しい。やはりツチノコはいる。私はそう結論づけていた。
  そ こへ、ある日、ノータリンクラブの坂井久光さんから郵便が届いた。びっしり書き込まれた手紙には「ツチノコの正体がわかりました。あれはハンザキ(オオサ ンショウウオオ)」という内容だった。坂井さんに会って話を聞く。坂井さんのオオサンショウウオ説は、面白い。頭でっかち、口の大きい姿はツチノコ
  「サンショウウオは川の中でしょう」
  「そ うや。ツチノコ出没は決まって深山、近くに清流がある。ハンザキは陸にもあがり、木の葉の下や木の穴にもお隠れになる。動物には向かっていく。陸では坂を コロコロ転がる習性がある。それと臭い。山椒の臭いがするからサンショウウオというが、敵には白い汁液を出し、その臭いたるや、鼻についたら、とれん。野 槌はまちがいなくツチノコや」
               
  坂井さんは興奮気味だ。
  兵庫県ツチノコ情報の中に長さ50㌢、胴回り10㌢の(サンショウウオに似たツチノコらしきものを見た)という記録がある。和歌山の竜神村渓流沿いでツチノコを見た話も残っていた。
  「仮にハンザキなら捕まえても、昔の人は驚かんやろ。なんやハンザキかだ。しかし、逃げたのは、なにかわからんから、話のネタになる」
  坂井さんの説明は延々と続いた。
  「素石(ノータリン会長)と、この話でけんかになった。素石は否定したから、おれがお前の見たのはハンザキ。俺も興奮していわずもがなの見てないのに見たというたのと、ちゃうかというたからけんかになった」
  二人はこの件で喧嘩別れした。坂井さんも素石さんも偏屈が歩いているような性格。だからこそ、渓流釣り、山歩きに人生の大半を費やした。
  オ オサンショウウオの生態は、清流に棲む天然記念物で体長は1㍍、胴回りは30㌢もあり、いまでは自然の残る山中にしかいない。自然破壊は生きた化石と呼ば れる絶滅危惧種の一番の大敵である。広島の安佐動物公園オオサンショウウオの飼育、観察で定評があるが、ここの担当者は「繁殖期(7月から9月)に上流 へ遡上、滝など障害物があると陸にあがり、滝越えや別の川へ移動することがある。また、オオサンショウとは別種のサンショウウオは主に陸生ですよ」と、坂 井説を裏付けた。ハンザキ大明神の神社も存在し、古来、信仰の対象にもなっていた。
  繁殖期は獰猛になり、かみつく。目ではなく気配でとびかかるところは、ツチノコだ。
  私は記事にするか迷った。ツチノコの正体みたりでは、あまりにも夢がなさすぎる。坂井説にうなずくところがあったが、記事にしなかった。会社を辞めてから先輩と「京都滋賀の隠れ里」(淡交社)を共同執筆したさい、北山の項でハンザキ説をちらり書いた。
  ツチノコの学問的研究は民俗学柳田国男民俗学・植物学の鬼才南方熊楠(みなかたくまぐす)の二人しかいない。柳田はツチノコを民話の世界にとどめた。熊楠は和漢三才図全巻を筆写、雑誌「太陽」ツチノコ研究をまな板にのせ、マムシ説をにおわしている。
               
  昭和30−40年代、日本オオカミ研究の動物作家の斐太猪之介は「山がたり」でツチノコを取り上げた。素石さんよりも早く、単行本で発表している。
  ツ チノコが世の中を賑わした昭和の時代、日本は列島改造、ダム化が進み、山が崩され、清流は危機にひんしていく。オオサンショウウオの生息地も同じだ。自然 を守れ、という警告に聞こえた。素石さん、坂井さんもいまは鬼籍の人。夏が来るたびに、大人の童話としてツチノコと北山を思い浮かべ、夢の中をコロコロさ まよっている。
  そろそろ出て来いツチノコ


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