第85回 西行、歌の旅 鴫立つ沢の秋をゆく

  小田原から鎌倉にかけての海岸は、相模湾の砂浜が続く。JR大磯駅から南西の国道1号線(旧東海道)に「鴫立沢」の名の交差点がある。地名ではなく、このあたりが西行の詠んだ歌ゆかりの地である伝承から、国土省が付けたようだ。
  平安末期の 1127年(大治2)、御所の警護をする北面の武士、佐藤義清は、鳥羽院から帰宅後、まつわりつく愛娘を縁から蹴落とし、嘆く妻を振り捨て、突然の出家を した。まことにすさまじいばかりの世捨てであった。家族には無論のこと、本人にも説明できない無常という名の衝動に駆られての山篭りの始まりだった。西行 25歳(23歳とも)。
             西行出家の図
  出家の理由について友人の急死、失恋などの伝承が残るが、すべては後世の推測にすぎない。確かに噂された待賢門院(鳥羽天皇女御)の子どもである崇徳天皇に寄せた西行の敬愛の情は、深かった。出家から3年後、西行は東へ向かい、行方定めぬ旅に出た。
  富士山を仰ぎ、相模国大庭の秋の夕、沢辺で鴫の飛び立つ音を耳にして詠んだのがこの歌である。
     心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
  西行の代表歌としても名高い歌は、鎌倉時代に成立した『西行物語』、西行の歌集『山歌集』にも時代、場所を特定できる記述はなく、研究者の格好のテーマになった。
  いつ、どこで詠んだ歌なのかは、後世の判断にゆだねる粋なはからいは、偶然であったとしても、門外漢をして推理の楽しみが歌の世界へ誘う。西行はヒントを幾つか残している。
  詠 んだ場所については背景を説明する詞書に「鹿の鳴き声」があり、京都説も根強いが、『山家集』の「秋、ものへまかりける道にて」から奥州への旅の途中に詠 んだ説が江戸時代になって広まった。大磯の海辺に近いところである。1664年、小田原の崇雪という人物が西行を慕い、大磯に草庵を構え、この庭に「鴫立 沢」の記念碑を立てたのが始まりで、元禄期には俳人大淀三千風(おおよどみちかぜ)がここを晩年の住いにしたことで有名になった。三千風は全国を旅し、芭 蕉に影響を与えた。
  鴫立庵は、以来、俳諧の三大道場(京都・落柿舎、滋賀・無名庵)になり、現在も句会が開かれ、庵の座敷には鴫の置物がある。毎年3月末には大磯西行祭が催さ れ、来年3月で57回を数える。庭の鴫立庵の標石の裏には「湘南清絶地」と刻まれ、ここが湘南の呼称発祥の地ともいわれている。湘南は中国・洞庭湖のほと りを指しているが、大磯付近が似ていたことから付いたという。
                鴨立庵
  鴫立庵を出て、沢を歩いて200㍍も行くと、相模湾の海岸である。このあたりは磯鴫が群れて飛来する水鳥の餌場になっている。鴫は南半球と北半球を渡る旅 鳥。日本には春、秋に渡りの途中に飛来し、中にはそのまま居つく鳥もいる。西行の時代は芦原と湿地の中を沢が流れていたに違いない。東隣の鵠沼の「鵠」は 白鳥のことであり、西行物語では「大庭(鵠沼)過ぎて」と描写しており、鵠沼から大磯にかけての沢には鴫の羽音が絶えなかったはずである。
                磯鴎
  かくて場所は大磯周辺が定着した。問題は詠んだのはいつかだ。西行は東北には1186年(文治2)、平家滅亡し、義経が頼朝の怒りに触れ、平泉の藤原秀衡を 頼って逃げ延びた頃、2度目の旅をしている。最初の奥羽旅から40年余経過している。鎌倉では頼朝とも和歌、弓など歓談しており、西行は鎌倉武士たちの間 でも畏敬をもって迎えられた。
               
  『鴫立つ沢』は若い頃、最初のみちのく旅か、晩年の2度目の旅の歌かで意見が分れるが、晩年説が大勢である。若い頃の作にしては歌が枯れているという理由だ。
             旧東海道大磯
  江戸時代の国学者本居宣長は「心なき」とは世俗の愛憎の念などないという意と、解釈している。西行は出家のさい、すがる4歳の娘を蹴落としてまで「心なき身」になったのである。
  「心なき身にもあわれは知られけり」をどう理解するか。それには、若き日の西行の感性と、歌の道、仏の道の両道を歩いた人生後半の心の動きの変化を歌から読み 取る必要がある。私の結論はこれはカンといってもいいが、若い日々、世捨てて間もない頃の西行が鴫立つ沢でたたずみ、詠んだ歌に落ち着く。
  もうひとつの理由 は、西行がこの歌を気に入っていたことだ。2度目の奥州行きの翌年、藤原俊成選者の『千載和歌集』が完成、披露された。西行の歌は18首選ばれた。ところ が「鴫立つ沢」は選から洩れていた。西行は洩れたことを不満として『千載集』をみようともしなかった。これは『今物語』(藤原信実)の中で西行の話として 引用されている。
  ―西行法師がみち のくにのかたに修行しけるるに、千載集えらばるるとききて、ゆかしさにわざとのぼりけるに、知れる人行きあひにけり。この集の事ども尋ねききて、「われよ みたる 鴫立つ沢の秋の夕暮れといふ歌やいりたると、尋ねけるに「さもなし」と、いひければ、「さてはのぼりてなににかせむ」とてやがてかへりけりー
  この説話が事実であるなら、2度目の奥州行の前に「鴫立つ沢」は詠まれていたことになる。しかし、西行は千載集編纂の文治4年には奥州から戻っていたという 研究や『今物語』、『西行物語』は実話風を装いつつ、フィクションを交えた読み物のため、決め手にはならない。ただ、説話の「みちのくへの旅の途中」は作 者がたまたま引用したのにしては、はまりすぎて信憑性は高い。
  西行は千載集編纂に先立ち、交流のあった撰者の藤原俊成に自薦の歌を『御裳濯河歌合』(みもすがわうたあわせ)、息子定家に『宮河歌合』を送稿している。 『御裳濯河』は伊勢の五十鈴川のことで、伊勢神宮奉納が目的で仕上げた。歌合は歌を右、左に並べてどちらかに勝ち、負け、引き分けの判定をする、いわば和 歌のコンテストである。その判定を俊成親子にゆだねている。事前運動に近い。西行は隠棲の歌人とする紹介文もあるが、和歌の世界において隠棲はないに等し い。人に知られぬ歌など詠む意味がないからだ。
  二条家の歌の手引書でもある『井蛙抄』(せいあしょう・頓阿著)の説話には当時の西行世間評のくだりがある。
  文 覚上人の説話の中で上人はかねて「出家、遁世の身ならば一心に仏道修行、他のことをするべきではない。西行は風流を好み、歌を詠んでまわるのは許せない。 出会ったらぶんなぐってやる」と、弟子たちに語っていた。文覚は武士から出家し、神護寺の再興に尽力した荒法師。ある日、高雄の法華会に来た西行が寺を訪 ねてきた。弟子の知らせに文覚はてぐすねひいて待ち構え、西行に会うが、顔を見たとたん、「よくぞこられた。待ってました」と、食事をふるまい、泊めた。 驚いた弟子があれほど憎んでいた上人がなぜ歓待したのか理由を尋ねると、「あれが文覚になぐられる顔か。なぐられるのは文覚のほうだ」と、一目で西行に心 酔したエピソードを綴っている。
  世捨て人の僧と、世俗にどっぷりつかる歌人の顔を西行は持っていた。『御裳濯河歌合』は18番(36首)あり、この18番右に『鴫立つ』、左に『おほかたの 露にはなにのなるならむたもとにをくは涙なりけり』(野一面の露はなにがなるのだろうか。私の袂に置いた露は涙である)を並べた。
  俊成の判定は『おほかたの』の勝ち。「鴫立つ沢といへる、心幽玄に姿およびがたし。ただし、左の歌、露には何のといへる、詞浅きに似て、心ことに深し。勝るともうすべし」。
  俊成には鴫立つの下の句に比べて「心なき身」の上の句が気にいらなかった。幽玄を歌の心にした俊成にとって、歌の3要件は心、詞、姿にあり、歌のバランスを重視していた。あからさまに心うちを吐露したくだりを評価しなかった。
  俊成は36首の歌の多くに西行の心の深さを認めながら、「心なき身」にこだわった。これは私の推測になるが、俊成には西行のこの歌に託した意図がすけてみえた。西行は俊成にこんなメッセージを送ったのではないか。
  「あなたはもののあわれ、風雅の極にある幽玄に通じている。引き換え、私はこころなき身。若い感性、それでも幽玄のこころはわかるのですよ」
  西行は俊成なら理解してくれる、と思ったのかも知れない。親父がだめでも息子定家ならわかってくれる。そんな思いもあってまだ20歳代の定家にも歌合を送っ たのだろう。しかし、さすがに若い定家は判定をためらい、先送りした。判定がでるのはそれから2年後である。定家は西行没後、編纂にあたった新古今和歌集 で『鴫立つ沢』を選んだ。新古今集では定家の代表作、『見渡せば花ももみじもなかりけり 浦の苫やの秋の夕暮れ』と肩を並べている。新古今集は波乱万丈の 生涯をおくった後鳥羽院が情熱を注いだ勅撰歌集である。後鳥羽院鎌倉幕府に対抗した承久の変の中心人物で、敗れて隠岐へ配流になるが、西行の歌を誰より も理解し、「生得の歌人」と評した。これに対して定家は「生得の上手」と、技巧に走る歌を厳しく批判している。
  西行に傾倒していた評論家小林秀雄は、俊成、定家の歌を比べ「生活人と審美家の違い、詩人のそばで美食家があうでもない、こうでもないと、いっているようで ある」と、辛らつである。小林は出家直後の歌について、自ら進んで世にそむいた青年武士にとって歌の姿、かたちなど関係なかった、としている。
  西行は自賛歌の第1に推した歌
     風になびく富士の煙の空にさえて行方もしらぬ我が思いかな
  富士山は1183年に噴火、この歌は富士山の煙を見て詠んでいるので、噴火3年後の2度目の奥羽の旅の途中に詠んだことがわかる。ところがこの歌は歌合には いっていない。みちのくの旅から戻り、歌合を編み、俊成に届けた説はほぼ定説に近いが、「鴫立つ沢」がはいり、自賛歌の「風になびく」をなぜ入れなかった のか、疑問は残る。歌合の歌集は歌人西行の集大成だった。だからこそ、西行はいつ死んでもいい、再度のみちのく旅に出発した。やはり、鴫立つ沢は若い頃の 歌という結論になってくる。
  西行は、娘と再会したことになっている。というのは、西行に子どもがいたかどうか、自筆の書、歌にもないため、鴨長明の『発心集』(ほっしんしゅう)や『西 行物語』などの説話から娘の存在を知るしかない。鴨長明西行より30歳ほど若く、伊勢に住んでいた西行を訪ねるも、みちのく旅に出た後で、会うことがで きなかった。鴨長明西行が娘の動向を注視していた、と記述している。
  西行は出家したとはいえ、歌を通じて多くの貴族たち、武士と交わりを持っていた。山寺で孤独の生涯を送ったわけではない。西行の生きた時代は摂関政治から院 政、そこへ平家、源氏の武士がからむ血なまぐさい政変連続の世であった。骨肉争う惨劇が繰り返され、一夜にして立場が逆転した。出家した西行はこの政治を 主従の関係を離れ、政治の表、裏を見てきた。娘の行く末を案じていたのは無理からぬところである。
  縁から蹴落とした娘。彼女は冷泉家に引き取られていた。西行はある日、娘を訪ねて再会する。西行は娘の成長を喜び、しみじみた思いでこう語る。
  「長 年、会うこともかなわなかったが、身捨てながら思うのはおまえのこと。幼いときは、宮仕えを考えていたが、わたしがこんな出家姿になったからにはどうしょ うもない。つまらぬ宮仕えは人にあなどられるばかり。若く盛りであるのも老い衰えるまでのほんの少し間。ただ尼になり、母と一緒に暮らし、来世に意極楽浄 土に生まれなさい」
  捨てた父がこんどは出家を勧めるなど、いくら平安期といっても勝っ手過ぎるが、西行の混乱の世に対する厭世感を考慮すれば、愛情の表現として気持ちはわからないではない。娘はしばらく、沈黙のすえ、父の申しでを受けた。
  自分は歌の世界で名声にひたり、俗にまみれながら、娘には唐突に尼になれ、という西行仏道一筋でないこの矛盾こそが西行の人間的魅力といえなくない。
  娘、妻は後日、出家し、高野山にこもった。出家した娘は西行にこういう。
  「われ4歳にして父に捨てられ、7歳で母とも別れ、まるで人が死んで来世現世の中間をいるようでした。他人を恐ろしいと、ばかりと思って夜を明かし、日を暮ら してきました。幼い日から出家の気持ちはありましたが、いま、かないました。私に多くの財宝をお与えになってもそれはかりそめの夢。極楽浄土で父、母上と 3人で必ず会いましょう」
  泣く泣く別れた娘を見送る西行が見上げる空に秋の月。歌を詠んだ。
     月を見て心乱れしいにしえの秋にもさらにめぐりあひけり
     (月を見て捨てたおまえを思い出し、心乱れたかつての秋。あの秋がまたもめぐりきたかのような心乱れる今宵か)
  残暑の夏から9月19日は中秋の名月である。
               
                 西行肖像画(鎌倉・MOA美館)
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