第86回 秋は斑鳩の里 古寺巡礼

  〜鐘と柿のなるなり法隆寺中宮寺を訪ねて〜

          
  秋は京都よりも奈良だ。人の波をかきわける賑わいに変わりはないが、奈良の風情は歩いていると、寂としながらほのぼのとした心のやすらぎがふくらみ、ぱち んと消えてはまたふくらむ。映画にするなら、遠く離れていた孫が『おじいちゃん』といって駆け寄ってくるそばに、柿の木があり、遠くに五重塔がそびえる秋 の暮れの風景になるだろうか。郷愁といってもいい。ほかにも理由はあるが、その説明はあとにしたい。

  秋の法隆寺でまず浮かぶのは子規の俳句

     『柿くへば 鐘がなるなり 法隆寺

  正岡子規日清戦争に従軍記者として赴いた戦地で病気を悪化させて帰国、故郷松山へもどり、夏目漱石の下宿で2カ月同居したのち、明治28年10月、松山から東京へ戻る途中で奈良へ立ち寄った。歩くのがやっと。病が進んでいた。
  法隆寺をたずねて 詠んだ句が『柿くへば』で、詞書(ことばがき)には『法隆寺茶店に憩ひて』とある子規の代表作だ。ところが子規は奈良の宿で柿を食べて句を詠んだという 異説が出るにおよんで学者、研究者の論争になった。子規自身、随筆『くだもの』で奈良の宿で女中さんがむいてくれた好物の柿と鐘について書いている。
  「此 女(女中)は年にすれば16、7位で目鼻だちまで申し分のないくらいよい。生まれはどこかと、聞くと、月ヶ瀬(梅林で有名な奈良郊外の里)というので梅の 精でもあるまいかと思った。むいてくれた柿を食ふていると、ボーンという鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜がなるという。初夜というのが珍しく、どこの 鐘と聞くと東大寺の大釣鐘が初夜(最初の鐘)を打つのであるといった」
  柿が好物の子規は和歌や漢詩に柿と奈良をあわせた作品がないことを知り、奈良で柿の句を考えていたようである。異説を唱えた学者の一人、直木考次郎(歴史) は、子規の日程などから「柿くへば」の鐘は法隆寺でなく東大寺であること、さらに日程にあった日の天候は雨のため、病弱の子規が斑鳩を歩けたかどうか疑問 視した。結論は奈良の宿で聞いた鐘と柿に法隆寺の風景を合わせて詠んだ句と、考証した。
  子規の休んだ茶店聖霊院前の鏡池のそばに現存した。明治の境内写真に映るこの店は大正3年に店をたたんでいる。
  法隆寺日記にはこうある
  ―聖霊院前茶店は特別建物に接近防火上其筋よりの注意もこれあり。なおまた風致上見苦しき以って過般来持ち主中谷に取り扱い方につき種々交渉の結果、八拾五円を以って当寺に買収任意処分することに示談まとまるー
  子 規は奈良の旅から7年後に亡くなり、子規を師と仰いだ大阪朝日新聞の松瀬青々が追悼の意味もあり、跡地に句碑建立を申し出た。松瀬は第一銀行をやめて子規 の門下にはいり、再就職した大阪朝日の会計課に勤務のかたわら紙面に俳句欄を提唱、自ら選者をしていた朝日俳壇の創設者である。松瀬らの尽力で鏡池ほとり に句碑が立ち、毎年9月17日には法隆寺子規忌が開かれている。
          
  法隆寺に行くにはJR大和路線法隆寺駅から斑鳩の風景を楽しみつつ、五重塔を遠望するアプローチが一番だ。バスはすぐ寺前まで行くが、JRだと20分は歩く。確かに歩行困難の子規にとって雨の斑鳩はつらかったはずである。
  ところで斑鳩町斑鳩という地名はない。合併で斑鳩町は 生まれたが、大和国平群(へぐり)郡には町名も村名もなかった。聖徳太子斑鳩宮にちなむ法隆寺周辺をさす総称で、範囲もどこからどこまでと決まっている わけではない。この地の大槻(ケヤキの古名)に群集していた鳥の名が由来というが、日本書紀は「推古9年の春2月、皇太子(聖徳太子)、初めて宮室を斑鳩 に興てたまふ」と記すのみだ。
  法隆寺はいうまでもなく聖徳太子建立の寺。いまから1400年前の推古15年(607)にさかのぼる。太子は叔母の推古天皇の摂政になり、造仏、造寺を計画し、薬師如来を本尊にする伽藍を完成させた。
  太 子は実力者、蘇我馬子が抑える飛鳥を離れて斑鳩に理想郷の実現を目指す一方で高句麗朝鮮半島3国百済新羅のひとつ)僧慧慈の指導を受け、仏教を広めて いく。しかし、新宮は太子没後、蘇我入鹿の軍勢に襲われ、斑鳩宮は廃宮になるが、太子の遺徳は法隆寺に引き継がれ、今日にいたっている。
  国道25号線から法隆寺に向かうと、松並木が200㍍余も続く。樹齢数百年の松の南端に立ち、南大門と五重塔をのぞむ風景は、荘厳かつ静寂に満ちている。並木をぬけると、南大門。門から境内にはいれば、正面に中門。ここは私には思い出の場所である。
          
  小学校の教師に話が教科書から脱線する面白い先生がいた。坊さんが本業のためか、お寺の話が多く、ある日、授業は「ところで」と、法隆寺へ飛んだ。聖徳太子 から子どもにはむつかしい建築の話になり、黒板に描いたのが柱の特徴だった。中太りの柱の絵の横に、カタカナで「エンタシス」の文字。太子の話は記憶にな いが、「エンタシス」という初めて聞く響きが耳に残り、法隆寺といえば、エンタシスと思うようになった。
  中門の柱は胴張りが下から3分の1ぐらいのところで最も太くなっている。エンタシス様式は金堂、塔の柱に取り入れられているが、裳階(もこし)に隠れて見え ない。中門列柱は目で確かめことができる。連なる柱の膨らみは、小学校のわんぱくたちの顔につながり、ふるさとに来た気分に浸るのが常だった。私にとって 法隆寺にくる楽しみのひとつは世界最古の木造建築に漂うこのなつかしさにある。
          
  仏像では大宝殿の阿弥陀三尊像(国宝、伝橘夫人念持仏)の前で時間をとり、お顔をながめることにしている。橘夫人は光明皇后聖武天皇妃)の母にあたり、哲 学者の梅原猛氏は太子亡き後の法隆寺を物心両面で支えた橘夫人の存在をとりあげているが、厨子の中で蓮華上に三尊を安置する形式といい、お顔のうつむきか げんの微笑みは、見ればみるほど心なごやかにする仏像である。
          
  法隆寺には金堂の本尊釈迦三尊像百済観音の異名のある八頭身の観音菩薩をはじめ国宝仏像が安置されているが、細おもてから丸みをおびた顔はそろって個性豊かで、作者と飛鳥、白鳳、天平時代を反映している。この阿弥陀坐像はふっくらとして天平仏の趣きがある。
  私のお目当ての仏像はもうひとつある。法隆寺の東隣りの中宮寺、菩薩半跏思惟像だ。

  聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の宮跡に太子が母の死後に建立した寺。尼僧が住み、尼寺の総本寺になった。寺は荒廃するも室町時代になって伏見宮皇女が入寺し、中宮寺御所(斑鳩御所)と呼ばれた。
          
  私は奈良へでかける時、文庫本のガイド書をポケットにしまい、電車などで開いている。学者や美術家の解説よりも作家や評論家による紀行文のほうが好みだ。その中でやはり、この一冊といえば、和辻哲郎の『古寺巡礼』をおいてない。
  和辻哲郎は大正8年5月、友人らと奈良の古寺をたずね、その印象をまとめた。友人の木下杢太郎(医師、詩人、劇作家)にあてて書いた法隆寺の印象は
  ―あの中門の内側へ歩み入って、金堂と塔を一目に眺めた瞬間に、サアッというような、非常に透明な一種の音響のようなものを感じますー
  和辻が中宮寺を訪ねた日、ちょうど本堂修理中のため、観音さまは庫裏の奥座敷に移してあった。そこで和辻はこう書く。
          
  ― わたくしたちはただうっとりとしてながめた。心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには、慈愛と悲哀との杯が なみなみと充たされている。まことに至純な美しさで、また美しいとのみではいいつくせない神聖な美しさである。この像は本来、観音像であるのか弥勒像であ るのか知らないが、その与える印象は聖女と呼ぶのがふさわしい(中略)。私の乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のな い独特なものではないかと思われるー
  中宮寺の菩薩像は如意輪観音と伝承されてきたが、論争のすえ弥勒菩薩に落ち着いた経過がある。胡座をかけて座った姿勢からさらに右足首を左足にかけた状態を 半跏趺座というが、京都広隆寺弥勒半跏像と中宮寺の仏像はきわめて類似している。中宮寺は光背(こうはい)があり、黒くつややかな飛鳥時代の彫刻の最高 傑作で知られ、海外からはモナリザとともにアルカイックスマイルの代表作の評価を受けている。
  和辻哲郎が魅せられたように、この像を鑑賞して女性を意識しない人はまずないだろう。和辻哲郎は古寺巡礼の最後にこの像を見た余韻さめやらず、中宮寺の尼僧にも魅せられた話を残している。再会を楽しみに訪れた彼は
  「そ れは18,9の色の白い、感じのこまやかな、物腰の柔らかい人であった。わたくしの連れていた子どもがものめずらしそうに厨子の中をのぞき込んでいたの で、それをさもかわいいらしくほほえみながらながめていたが、やがてきれいな声でお嬢ちゃま観音さまは本当にまっ黒々でいらっしゃいますねえ、といった。 わたくしたちもほほえみ交わした。こんな感じのいい尼さんはみたことがないと思った。この日も逢えるかと思ったが帰るまでその姿を見なかったので何となく 物足りない気がした」
  和 辻哲郎30歳の5月だった。子規は和辻哲郎より24年前、奈良の宿の少女から柿をむいてもらい、梅の精ごとき美しさに魅せられている。わたくしが京都より も奈良を好むのは、古寺巡礼や子規のエピソードに憧れたせいもあるが、楚々とした女性にあえるかも知れないという不純な理由からだ。おしかりを覚悟でいえ ば京女は円熟、したたか、如才ないイメージがある。私にも出会いの経験がないわけではない。
  春日神社の境内。向こうから走ってくる巫女さんとすれ違った。顔も一瞬でしかなかったが、それこそ目鼻立ちの整った若い女性。後ろを見送りながら、なにが彼 女を走らせたのか、と詮索した。巫女さんが境内を疾走するなどめずらしい。どんないやなことがあったのか、と、余計な心配をした。社務所へ行って、受付、 案内の巫女さんの中にその姿を探したが、わからずじまい。顔も覚えていないのだから、無理もなかった。
  秋の奈良、社寺めぐりには、齢を忘れる思いがけない出会いが待つ予感がする。誰かにないしょで、密かに一人歩きを企てている。
  
 
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