第101回 大和一の紅葉の名所・多武峰、吉野

  〜「大化の改新」の舞台をゆく〜

 月末の急激な冷え込みで紅葉が鮮やかになった。出かけるなら京都を避けて、近江は湖東三山、奈良は多武峰(とうのみね)がお勧めである。多武峰は明日香村の北東に位置し、近鉄桜井駅からバス25分で終点、談山神社停留所へ着くが、ひとつ手前のバス停で降り、ここから杉木立の中を歩く。京都から近鉄で1時間半の道である。
   両側から山が迫り、倉橋川のせせらぎがゆかしく響く。参道の目印である丁石の案内で進む。屋根のついた屋形橋のそばに一本の紅葉。目にしみこむ紅があたり を染める。社殿の石段をのぼる。多武峰は御破裂山(607㍍)と談山(566㍍)に象徴されなだらかな山並みと谷あいの総称である。
  この南麓のかなりの急な斜面に木々の中に、紅葉と色を競う朱塗りの社殿が浮かぶさまは、絶妙の配置になっている。鳥居をくぐり、石段上の境内に重文の拝殿、 本殿、木造十三重塔がならぶ。神社に塔という組み合わせは、もともと多武峰寺(妙楽寺)として藤原氏の始祖、鎌足の遺骨を埋葬、木像を安置したのが始まり だからだ。明治まで神仏習合の権現社であったが、神仏分離で、名称を変えて別格官幣社になった。談山神社とはいうものの、鳥居を除いて外見は寺と変わりは ない。
           談山神社
  本殿西の十三重の塔は高さ17㍍、現存する唯一の木造建築。三間桧皮葺の造りは唐の清涼寺塔を模したといわれ、970年(天録1)に建立された。現建物は 16世紀に造営され、江戸時代に改造を加えている。十三重の初層を大きく、二層から上の軸部を短くしているため、屋根が重なりあっているかのような趣きが ある。塔周囲は3000本ともいう楓に囲まれ、晩秋ともなれば紅葉はあたりを透明感のある紅に包み込む。風に舞う落葉の風情は圧巻である。
  多武峰寺が藤原氏始祖の墓所になった経過は、古代史の政治改革『大化の改新』と関係する。古代史資料で唯一、記録している『日本書紀』(皇極天皇4年6月丁酉朔甲辰)、西暦645年6月12日。場所は飛鳥板蓋宮。
  『中大兄、見子麻呂等、畏入鹿威、便旋不進曰、咄嗟。即共子麻呂等、出其不意、以剣傷割入鹿肩』
  これは日本書紀にある中臣鎌子藤原鎌足)、中大兄(天智天皇)が板蓋宮で開かれた三韓百済新羅高句麗)の調の儀式において朝廷の実力者蘇我鞍作(入 鹿)に斬りつけ暗殺したくだりである。蘇我一族は聖徳太子の死後の朝廷にあって外交、政策、人事を牛耳り、反対派を粛清してきた。蘇我馬子は姪にあたる推 古天皇(最初の女帝)の後見役として権勢をふるい、飛鳥寺の建立など仏教帰依して支配を強化した。石舞台古墳は馬子の墓ともいわれ、当時の蘇我一族の力の 象徴になった。息子の蘇我毛人(蝦夷)、鞍作親子の代になり、皇極天皇(女帝)を飾りものの座にすえて、朝廷人事の私物化、外交の独断、祭祀も行い、ひん しゅくをかっていた。
           鎌足
  この蘇我専横に異を唱えて行動にうつしたのが中臣鎌足藤原鎌足)である。鎌足は皇族に接近して同士をつのり、中大兄皇子飛鳥寺槻の木広場における蹴鞠で 皇子の脱げた靴を拾い、親しくなる。やがて二人は多武峰の談山の森で暗殺計画を練った。談山の名はふたりの密談に由来するという。
  計画は成功するが、当初の手はずどおりにはならず、中大兄皇子がいきなり斬りつけたところが前述の漢文部分になる。入鹿(鞍作)は父の毛人(蝦夷)より武断 的な性格で畏れられ、日本書紀はその公私混同を書いている。入鹿の死で父の毛人も自宅で自刃し、蘇我氏の権勢はここで終わり、翌年正月に『改新の詔』発 し、公地公民主義などの新政策を導入された。中兄大は天皇に就かず、皇子のままでいたが、鎌足は功臣として朝廷に重きを置かれ、中兄大皇子が即位とともに 近江京で仕え、藤原氏の姓を受けた。
  藤原氏鎌足のあと、不比等によって重臣の地位を固め、式家、南家、北家に分家したのち、平安時代には北家の藤原冬嗣の代で摂関政治の基礎をつくった。鎌足 が討った蘇我氏専制藤原氏が引き継ぐその後の歴史である。血の色のような紅葉が当時の政変をたぐりよせる。この時代、朝鮮半島と日本は往来が頻繁で、 百済新羅高句麗三韓が日本に同盟を働きかけていた。当初は百済とのつながりが強かったが、新羅の力が増し、蘇我氏百済から三韓外交に軸足を移して いたという。一方、中兄大皇子は親百済のため、外交上の対立を暗殺の遠因にあげる研究もある。
  大化の改新から18年後、即位した中大兄皇子天智天皇)は百済に与して白江村の戦いに参戦し、新羅・唐軍に大敗している。
  鎌足は669年(天智8)死去、摂津の阿威山に葬られたのち、唐から帰国した長男定慧によって多武峰に移葬され、十三重塔、妙楽寺を建立し、藤原氏の聖地になった。
           十三重之塔
  鎌足中大兄皇子が密談の談所ケ森は神社権殿の左奥の登山口からのぼってゆく。急坂をのぼりつめると、「談山30㍍、御破裂山250㍍」の道標が立ってい る。往復1時間の道だ。山頂からながめる大和盆地は万葉の世界とともに権力闘争の歴史をしまいこんでいる。紅葉の色の違いを写真に撮りつつ、明日香村へ降りた。
  石敷きの板蓋宮跡は村役場のそばにある。あの日、板蓋の屋根は雨に打たれ、音を立てていた。皇極天皇、皇族、入鹿が席につくと、入鹿の従兄弟にあたる石川麻 呂が上奏文を読み上げる。それを合図に佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田が斬り付けることになっていた。ところが刺客の二人は震えて動けず、上奏の石川麻呂は汗 ずっくりになった。入鹿は「なぜそんなに汗をかいているのか」と、問い、石川麻呂は「御前で畏れ多い」と取り繕うが、入鹿は不穏な気配を感じて身構えた瞬 間、中大兄皇子が飛び込み、入鹿の肩に斬りつけ、続いて刺客役の二人も入鹿を刺した。面前の惨劇に天皇は驚き、退場した。入鹿の死骸は雨の外へ投げ捨てら れ、ここにクーデターは成功した。
           板蓋宮跡
  皇極天皇は退位し、異母弟の軽皇子が即位するが、当初は即位を辞退し、中大兄皇子こそ即位するべきという、謙譲の美徳とかけひきを繰り広げた。結局、軽皇子孝徳天皇になり、わが国の歴史で生前に退位する最初の譲位が実現した。研究者の中には軽皇子こそ、蘇我入鹿暗殺の黒幕という指摘があるが、それは彼が即 位した結果論だろう。公園化された板蓋宮跡をぐるぐる回りながら、日本書紀の描写を風景の中にあてはめてみる。江戸時代の『多武峰縁起絵巻』は日本書紀の 記述に従い、暗殺のもようを絵巻物にしている。用心深い入鹿が討たれたことに疑問もあるが、入鹿にとって従兄弟の上奏を合図に天皇の前で剣をぬくなど想定 外であったにちがいない。
           多武峰絵巻
  孝徳天皇は飛鳥を離れ、難波宮へ遷都する。退位した皇極上皇は飛鳥に住み、孝徳天皇の没後、再び天皇斉明天皇)に復位、飛鳥に都を移した。いつの時代でも政権交代後の政治はめまぐるしく変化し、落ち着くまで時間がかかるか、さらに政変に見舞われるのが常だ。
  中大兄皇子がこの時、皇太子になり、皇位継承者になった。入鹿暗殺から13年が経過していた。実力者でありながら、権威を求めなかった天智天皇の深慮遠謀は飛鳥を離れ、近江京遷都まで母親の背後で政治にかかわり、混乱の時代を乗り越えた。
  発掘が進む板蓋宮跡から600㍍離れたかつての飛鳥寺そばに蘇我入鹿首塚が立っている。南北朝時代の建立とみられるが、この首塚には伝説があり、入鹿の首 が鎌足を追いかけ、鎌足多武峰へ逃げたというものである。鎌足を悪者にした敗者へのいたわりは、数々の政変を経験してきた飛鳥の歴史を見る目は鋭い。藤 原氏の摂関政治の終わりを告げていたことも建立の背景にあった。
  多武峰から吉野は山越えた西にある。直線距離にして5キロ㍍しか離れていないが、バス、鉄道を乗り継ぐため2時間半はたっぷりかかる。この秋、多武峰―吉野 間にバス運行が実現した。わずか30分の道。壬申の乱大海人皇子天武天皇)が兄天智天皇の息子への後継指名に反発、近江から吉野に籠もった歴史が思い 浮かぶ。大津に住んでいると、なぜ吉野と考えがちであるが、飛鳥育ちの大海人皇子は吉野の地理にくわしく、地の利があった。きわめつけは大海人皇子の吉野 出家は病床の兄にある出来事を思い出させるためであったという仮説。大化の改新後、中大兄皇子から即位を勧められた異母兄の古人大兄皇子は即位を断り、吉 野へ出家しているからだ。病床の天智に蘇我入鹿暗殺を忘れていませんぞというメッセージであったことを否定できない。
  日本書紀はあの日の『乙巳の変』前後の大海人皇子動向はまったく記していない。中大兄皇子実弟の大海人なら、なんらかのかかわりがあってもおかしくない。 ここからが歴史の闇、大海人は実は、入鹿の子どもであったという仮説が登場する。吉野挙兵後、近江を避けて伊勢から美濃へ進軍した大海人皇子は豪族尾張氏 の支援を受け、近江側との戦いに勝利する。蘇我親子の屋敷を守った兵たちは尾張氏の配下にあり、蘇我氏尾張氏は主従関係にあった。中大兄皇子が大化の改 新後も即位を辞退してきた理由のひとつに弟大海人皇子に配慮したからと、考えればつじつまはあう。入鹿暗殺から27年後の壬申の乱の根は蘇我入鹿暗殺にさ かのぼる話は、頭をひねくりだしたら止まらない歴史の面白さである。天智天皇が親百済であったのに対して天武朝は親新羅・唐。つまり蘇我氏の外交路線に大 海人皇子がいた。近江から都が奈良へ戻るのは、当然の帰結だった。
  バスは竜在峠を越え、眼下に吉野の風景が広がる。吉野、大峰の重畳たる連山がそびえ、秋の日差しをあびている。吉野に着くと夕暮れは近かった。名物の桜は色 づき、あでやかさこそないが、風雅な趣きを漂わせている。山間に煙がのぼり、孫の手をひくご同輩とであった。茶店吉野葛ぜんざいを注文する。絶妙なのど ごしと、風味が素晴らしかった。
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