第102回   新東京・江東をゆく

    〜ノスタルジー共有なるか高層マンションと運河〜 
  東京は日に日に進化している。大阪との違いはここだ。京都はともかく、全国都市で50年前と現在を比べて著しい変わりようは東京と福岡だろう。なかでも、湾岸線に目を見張らざるをえない。隅田川、荒川沿岸の移り変わりである。海抜0㍍地帯などと揶揄された江東一帯にかつての面影を探すなら川と運河の流れ以外にない。その川も臭い水の時代から一変している。あの悪臭と蝿のゴミの島「夢の島」は緑の公園になった。
  江東は江戸城から東南、方位でいえば辰巳の方角にあたる。隅田川と荒川の中州の南に位置し、東京湾の干潟であった。北は墨田区。埋め立て地は運河に囲まれ、物流の拠点、スポーツ公園、高層マンションなど東京の新名所に様変わりした。
          
  東京に長く住んでいても、東京湾岸の地形を正確に書ける江戸っ子は少ないに違いない。私など東京の東西南北がいまだにわからないから、東京駅や新橋が海に近いなど想像もつかない。昨年から次男夫婦と孫が江東・マンション住いになり、訪ねていくところだ。
  東京駅から江東・東雲に行くには地下鉄が早いが、地下にもぐってしまい、どこがどやらわからないまま、駅に着き、階段をのぼって地上へ出ると、まさにちんぷんかんぷんの地域が広がる。これがバスなら道中模様で方角もつかめ、東京地理の勉強にもなる。東京八重洲口から15番深川車庫行に乗ると、そのまま東雲橋まで運んでくれる。勝どき橋から晴海、豊洲湾岸線にはいるにつれて、ビルは高くなり、東雲でビル群に出会う。時間にして35分、おのぼりさんには結構な遊覧である。
  東京湾の埋め立ての歴史は古い。江戸幕府を開く13年前の1590年(天正18)、江戸の人口増に対応してはじまり、築地の地名のごとく東から追々と築きあがられた。寛永年間には攝津国(現大阪府)佃村の漁民が干潟に移り住み、故郷をしのび佃島と名づけた。この島の漁民は江戸城の御用を勤め、白魚漁は有名だった。水路を挟んだ石川島は、無宿人収容の施設だった。聖路加病院の500㍍北東、船松町から佃の渡(わたし)が出ていた。昭和39年に佃大橋が完成して渡しは廃止になり、佃に渡船碑が立っている。
          
  勝どき橋は1970年を最後に開いていないが、東京へ出て間もない学生時代、勝どき橋見物して墨田川沿いをのぼり、船で島へ渡った記憶がある。確か無料。江戸時代は不定期に運行していたが、明治に佃島、月島、石川島に造船所ができていらい、渡し往来が盛んになる。1910年(明治43)には江戸臨海埋め立てがスタート、大正から昭和初期に晴海、豊洲、東雲が陸になった。東雲は隅田川と荒川に挟まれ、晴海ふ頭の東、テニスの有明コロシアムから1キロ北にある。東雲は曙を意味し、昭和初期に公募で命名された。東京湾にのぼる朝日があたりを染める風景が名の理由になっている。
  辰巳橋でバスを降りる。橋の東は都営辰巳団地、その東は夢の島、荒川である。橋下の流れは辰巳運河で、500㍍南に東京湾の水門があり、艀(はしけ)が運河に浮かぶ風景は2020年オリンピックの顔になるだろう。20年前、東京湾からサンマ大群がまぎれこみ、大漁騒ぎがあった。バケツにいっぱいの江戸前サンマを手にした住民の写真が新聞紙面を飾った。ハゼ、シーバスが釣れ、休日は釣り人が缶ビールを手に糸をたれている。
         
  東京は日に日に進化している。大阪との違いはここだ。京都はともかく、全国都市で50年前と現在を比べて著しい変わりようは東京と福岡だろう。なかでも、 湾岸線に目を見張らざるをえない。隅田川、荒川沿岸の移り変わりである。海抜0㍍地帯などと揶揄された江東一帯にかつての面影を探すなら川と運河の流れ以 外にない。その川も臭い水の時代から一変している。あの悪臭と蝿のゴミの島「夢の島」は緑の公園になった。

 江東は江戸城から東南、方位でいえば辰巳の方角にあたる。隅田川と荒川の中州の南に位置し、東京湾の干潟であった。北は墨田区。埋め立て地は運河に囲まれ、物流の拠点、スポーツ公園、高層マンションなど東京の新名所に様変わりした。

  水のある風景は、生物にとって安らぎ、癒しをもたらしてくれる。運河の西は高層マンションの東雲カナルコートである。カナルは運河を意味する英語。江戸はいうまでもなく水の都であった。当初、北西の高台から南東の皇居のほうに川の水が流れていた。この川の流れは洪水につながり、東西に人工河川である神田川を通して流れを付け替え、隅田川へ流した。1657年の明暦大火後、大川(墨田川)の東に運河網が整備され、木場ができ、富岡八幡宮、永代寺の門前町で栄え、深川仲町門前仲町)の名がある。木場の旦那衆や漁師、職人は門前の料理屋や色街のなじみになり、にぎわいは吉原をしのいだ。
  1980年代、ウオーターフロントなる再開発がアメリカから入ってきた。大阪をはじめ全国の港湾都市に導入された。私見をいえば成功したのは福岡ぐらいと思っている。法政大の陣内秀信教授は著書『水の東京』(岩波書店)で「東京はヴェニスアムステルダム似た運河の都市でアメリカの都市とは歴史、地形、川が違う」と、書いている。運河は東京の歴史遺産であり、大東京のインフラといえる。
  江戸時代、辰巳といえば、粋(いき)な芸者衆の代名詞。江戸時代の女性は羽織を着なかったが、辰巳の芸者は羽織姿の男言葉で威勢のいいたんかを切り、吉原の太夫言葉とは対照的な男っぽさが江戸の男に好まれた。いなせな江戸文化には辰巳姐さんたちの気概が流れている。東京では東南の風が強い。辰巳芸者の意地のきつさは風の強さの比喩にしばしばつかわれてきた。その木場も荒川河口に移り、町名の木場が富岡八幡宮の東に残る。
         
  江戸時代の歌舞伎狂言東海道四谷怪談』は雑司ケ谷で投げ捨てられたお岩の死骸がめぐりめぐって神田川から隅田川を経て、深川の小名木川を流れ、そこで釣りをしていたお岩殺しの伊右衛門の前に上がる怖い筋書きである。有名な戸板返し場面だ。なぜ、雑司ケ谷から深川まで死骸が流れるのか。今の東京地図ではイメージしにくいが、神田川が南北の川を東西にした人工河川、運河であることを思い起こせば、納得できる。大川の流れは深川の運河をめぐり海へ注ぐ。作者の鶴屋南北は晩年、ここに住み、75歳で死んでいる。南北のすごいのは忠臣蔵四谷怪談をあたかも戸板の裏表の如く、正義と不義に仕立てあげた展開にある。貞女お岩と悪人伊右衛門の組み合わせ。伊右衛門赤穂浪士47人に加わらなかった不義の侍の一人の設定にしてある。歌舞伎の舞台で人気を呼ぶゆえんだ。
  深川の中心街、門前仲町はうまい店のある通りで観光客を集めている。下町ムードにのせられて、「うまいな」と口にするモンナカの魅力。深川は江戸前の魚に、ウナギがよくとれた。貝はアサリ。アサリ飯はむきみのアサリをご飯にのせ、味噌汁をかけて食べる漁師料理であるが、そのシンプルな味わいは、いくら金と時間、手間をかけた料理といえどもかなわない。サッサ、パッパと出てくる丼を一気にかきこむ。このリズムが江戸情緒だろう。
  深川の北の広大な敷地の清澄庭園はかつての紀伊国屋文左衛門の屋敷跡ともいわれ、大正時代に三菱財閥岩崎弥太郎が荒れていた土地を別邸にし、三菱の保養地にした。庭園は東京都に寄付され、見事な林泉式回遊庭園として公開されている。三菱グループは深川から南の土地を工場用地に取得していた。
  50年前の東京。東雲は工場地帯だった。三菱関連の会社が操業、敷地の大半は三菱製鋼が占めていた。運河の東の辰巳都営団地は昭和37年から44年にかけて建設、3千戸の大規模の集合住宅である。東京都は2020年のオリンピックで競泳会場に辰巳地区を選び、整備するが、老朽化の進む都営住宅も高層団地に生まれ変わるという。
  東京湾の夜明け前、闇から明るくなる曙を意味したネーミングの東雲地区。再開発は三菱製鋼跡地の16㌶(88万平方㍍)を高層化するべく2000年に着工された国内最大級の開発である。公団と民間あわせて6000戸、人口1万5千人のニュータウン計画には、一戸建ては一切、なかった。民間は三菱地所三菱商事が受け持ち、ツインの54階建て最初のタワーマンションを立ち上げた。東京駅まで5キロ、銀座は歩いても30分の距離である。
  2005年に完成のタワーマンションは中庭の吹き抜け構造になっていて、出入りはむろんオートロック、入り口にガードマンと一階受付が24時間対応する管理が評判を呼んだ。一階はすべて共有のホテル並みの広いロビー、読書コーナーなどで、最上階にはゲストが一泊3千円で宿泊できる和洋ゲストルーム、ミーテイング室、スポーツジムがある。山手などから移り住む若い夫婦が中心で価格も晴海や月島あたりよりも安く、2LDKで5千万円を切った。東日本大震災では液状化がみられたが、建物の自体の被害はなかった。やはり、地震対策が先端マンションの鍵をにぎっている。
  その後、人気は衰えず、タワーマンションが次々に建設され、その数は10棟を超える。空に向かってのびる建築のため、広場や空間が確保され、この一角には6つの広場、緑地があり、夕方ともなると、学校の運動場並みの子どもの姿であふれる。
          
  前で遊べ、しかも各マンション前には警備員が駐在している環境が安心を生んでいるからだ。カナルコートを歩いて気づくのはゴミひとつ落ちていないこと。シンガポールがそうだった。TBSの人気ドラマ、「半沢直樹」のロケでは岸川慎悟取締役の自宅はここのマンションになり、放映された。
          
  一階をはいると、ロビーのソファがあり、来客や読書の住民の姿が散見できる。子どもたちは、通学の行き帰り、ここでダベリングを楽しむ交流場にしている。日本でハイタワー育ちの子どもはまだ少ない。この種の環境が子どもの情操にどのような影響を与えるかわからない。観察していると、結構、仲間意識が強く、学校の行き帰りの集団登下校など戸建ちの住宅街よりむしろ地域の絆が芽生えている。大人たちが心がけているからだろう。10年もしないうちに「しののめ族」なんてはやり言葉が生まれるかもしれない。
  カナルコートの最後のビルは江東区役所支所。支所といえども11階建て。田舎住いゆえ、つい比較したくなるが、地方に持っていけば豪華な庁舎でも、ここではまったく目立たない。もっとも公務員宿舎という高層マンションもこの一角に並ぶ。カナルコートはデザイナー建築である。各棟で設計者が異なり、グッドデザイン賞、BSC(建築業協会)特別賞を受賞している。S字の道と6地区は建築家チームのデザイン。単調でない自由さを感じるのも、空間設計の粋の結果だろうか。緑地帯、運河沿いの散策路は申し分がない空間である。
          
  ところでカナルコート最初の建築はスーパーのイオンモール。24時間営業。保育園を併設、江東循環の無料バスが一時間にA、Bコース各1本運行など話題にことかかない。銀座あたりからの客も視野に入れている。面白いのはカナルコートから晴海通隔てたパチンコ店が客の送迎用のバスを運行している。イオンに習ったのだろうが、競輪、競艇の無料バスはあってもパチンコ店のバスは初めて聞いた。医者も土日開いている。銀行の自転車コイン貸しなど共有(シェア)の仕掛けが町とマンション内にある。
  これまでの大型マンションは共有の理念はあってもスペースに限界があり、戸建ちを積み上げただけの集合住宅にとどまっていた。タワーマンションは空間のゆとりからさまざまな共有が可能になった。ネット社会における共有論議は盛んである。東雲カナルコートはヨーロッパのような「共有思想」を意識的に取り入れた町づくりだ。
          
  福沢諭吉はノスタルジーの共有という言葉で外来思想を日本的に説いたというが、東雲が従来のニュータウン型であれば、高いだけの殺風景な都市に終わり、明日はない。運河の歴史、風景を共有したカナルコートの住民は東京生まれから地方出身者、さらにはアジアの国にまで広がっている。運河の共有で結ばれた住民がそれぞれの異なるノスタルジーをまとめることができるなら、新東京都民の誕生になるだろう。
  共有思想に大きな影響を与えた協同組合運動はイギリス・ランカシアでロッチデール先駆者協同組合の最初の店舗がオープンした1844年にさかのぼる。現在の生協の原型である。背景には減給、生活必需品の悪化、公正の欠如、労働者の職場環境の悪化が進んでいた。極めて今日的な課題であるが、政治は手を打てなかった。『先駆者』は加盟組合員の社会的、知的向上や一人一票の民主的運営、取引高に応じた剰余金の分配を運動の理念にして現実のものにしていった。
  時代、国、状況も異なるカナルコートと、ロッチデール先駆者を同列に論じることはできないが、ものを分かちあって社会をまわしていく概念は現代も150年前の英国も同じ古くて新しいテーマであるはずだ。
夜、明かりの煌々と輝くマンションの窓。深夜になると、マンションの灯りがポツン、ポツンと消えてゆく。朝は4時頃から灯がともりはじめる。雲の隙間から茜色の空が広がり、東雲の朝がやってくる。
          
               * *