第103回 SLで行く雪の湖北 〜北陸本線・米原から琵琶湖周遊の旅〜

  夏が過ぎ、冬になると、暑い夏が懐かしくなるのと同じで、SLの旅が恋しくなる。SLの夏はトンネルで窓も開けられず、むせた。ところがいまは、あの煙と音、ポーという汽笛が旅こころをくすぐる。汽笛は旅の始まりだ。
   岐阜と福井県境の湖北は北陸と畿内・東海を結ぶ交通の要所である。琵琶湖の北に位置するから湖北だ。鈴鹿山脈の東端に山並みが連なり、彦根、長浜経由で 北国街道が湖岸沿いに北へ伸び、戦国期には天下分け目の戦場になった。琵琶湖のさざなみは武者ぶるいを映していた。明治に鉄道が敷かれ、蒸気機関車が北国 への鉄路を走った。米原東海道と北国街道の分岐点にあたり、北陸本線敦賀経由で新潟・直江津まで伸びている。356キロにおよび、30年がかりで完成 した。
  京都から北陸への道は古代から琵琶湖西まわりの西近江路と東まわりの中山道を経て北国街道にはいる道があり、1974年(昭和49)に国鉄湖西線が開通して鉄路も西まわりの比重が高くなる。
  米原駅は鉄道の町だ。新幹線開通までは操車場にSLが待機し、休む間もなくSLが発着した。「米原は煙で雀まで黒い」といわれたほど煤煙が立ち込めた。米原 機関区は2千人の国鉄職員が勤務し、親子2代の運転士は珍しくない。この名門機関区は86年(昭和61)に廃止され、乗務の職員が毎日参拝した構内の大神 宮祠の処遇をめぐり、議論のすえ、駅東の山麓に移転が決まった。鉄道員らがカンパして500万円を移転資金したエピソードは鉄道の町の誇りだ。
  日本のSLは鉄道開通の1872年(明治5)、英国製の機関車が導入され、その後、九州は独、北海道は米国製のSLが走った。20年後の1893年になって国産SL860形が生産され、さらに10年後には英国製をまねた230形の量産でSL時代を迎えた。大正になり、オリジナルのSLが開発されるが、鉄道省内では技術革新に消極的な一派と積極的な技術者が対立し、積極派は冷遇された。積極派は南満州鉄道(満鉄)に移り、大陸の地で開発の夢を追った。戦後、電気機関車の普及でSLは1970年代からローカル線で運行にされ、1975年3月、九州から姿を消し、さらに12月には北海道室蘭本線長万部岩見沢間で「さよならSL」を最後に100年のおよぶ表舞台から降りた。
  SL廃止を惜しむ鉄道フアンに動かされ、静岡県大井川鉄道がC11・227を採用して路線の集客に成功したことから、国鉄も京都の梅小路機関区で動態保存に踏み切り、13両が有釜状態で公開された。西日本管内では1979年、SLやまぐち号が山口―津和野、同95年8月に北びわこ号米原―木之本で煙をあげた。
  北陸線はSLが似合う鉄路である。トンネルと海、港町。季節は冬。SL運 転20年の12月14日、今年最後のSL北びわこ号が運転された。ドカ雪が舞い、それをけちらして進むC56形160。京都梅小路博物館から出張してきて いる。JR西日本管内でのSL運転は山口―津和野間のSLやまぐち号とここしかない。山口は2時間余の汽車の旅になるが、北びわこは1時間、距離にして 20キロ余りである。途中停車駅は米原を出て、長浜、虎姫、河毛、高月、木之本駅で米原へ引き返すが、転車場がないため、復路は電気機関車がSLを曳く。 停車時間は8分あり、駅の回りを歩く時間はある。この日もカメラのSLフアンが沿線のポイントに集っている。ほぼ満席の盛況で相変わらずのSL人気だ。明 治時代は敦賀―長浜間をSLが1日3往復していた。
  雪もようのSLの窓。煤煙とボタン雪が交じり合う。北びわこ号は北陸の手前で引き返すが、車窓から北陸の海と空を想像するだけで旅情にひたることができる。 機関士が乗り込み、出発信号が青になった。機関助士はブログ(逆風機)バルブを全開し投炭を続け、機関士は右手を加減弁ハンドルに置いて発車時刻を待って いる。発車10秒前のベル。前方の白色灯が点灯し、ブザーがなり、「発車」。汽笛が響く。出発の合図はポーッ。トンネルは長くなる。危険や緊急は長短の連 打になる。機関士が加減弁を2−3ノッチ開放した。一呼吸おいてSLが動き出した。出発の際の衝撃を小さくする技術が腕のみせどころである。
  SL時代、出発の衝撃でけがをする乗客は少なくなかった。機関士が両手を逆転機に移して急速に一回転ほど引きあげるのがコツだ。この扱いが衝撃の強さを左右する。ガクンとはきたが、よろけるほどの衝撃ではない。車内で歓声が聞こえた。
  米原は江戸期の湊。古くは朝妻筑摩湊が開かれ、室町期まで栄えた。船客相手の遊女が一夜妻を務め、朝に別れたことから朝妻の名がある。新古今和歌集の藤原為忠の歌
     恋ひ恋ひて夜は近江の朝妻に君も渚といふはまことか
  朝妻は米原彦根、長浜の湊ができてすたれ、いまでは年1回、新聞を賑わすのは鍋冠まつりの日しかない。少女8人が鍋をかぶり、町内を練り歩く奇祭だ。 1200年の伝統があり、伊勢物語に登場する。祭りの由来は諸説あり、定かでない。食の祭神への礼を通説とするが、朝妻の名からくる艶っぽい説もある。
  米原を出て、次の停車は長浜駅。駅構内にさしかかると、すぐ左に古びた2階建ての洋館が見えてくる。現存する日本最古の駅、旧長浜駅舎である。明治35年の 建築。英人技師が新橋駅建築の経験を生かして新橋そっくりの駅舎にした。レンガ造りの2階建ての設計は、ハイカラだ。もう雪が積もりだした。
  滋賀県に住まないと、理解しにくいのは冬の気候が北と南でがらりと違うこと。これは湖北が日本海の雪雲の通過点になり、日本海側同様の雪を降らす。特に福井 県境に近い柳ケ瀬中河内は日本有数の豪雪地帯である。一方、湖南は瀬戸内式気候に属し、晴れ間が多く、風俗も異なる。湖北の農家の田植えは、かつて前向 きに苗を植えていったが、湖南では後ろ向きに下りながら植えていったという。長浜を過ぎて姉川を渡る。川幅はさほど広くないが、ここが織田信長徳川家康 連合軍と浅井長政朝倉義景が激突した古戦場である。長政は姉川で破れ、小谷城へ撤退するも、3年後の1573年(天正1)に信長、秀吉に攻められ自刃し た。妻、お市の間にできた茶々、初、江の3姉妹のその後は歴史の主人公として小説、TVの素材になった。
  雪はドカ雪。窓にべたりとはりつく。冬の乾いた雪でなく春の雪。この冬は春が早いかもと、勝手な予報をする。列車の進行方向の右、「小谷城跡」の標示が山にかかっている。
  遠くからみると、小高い丘にすぎないが、のぼっていくと、意外に山深く、険しい。日本三大山城の名にふさわしく、信長も落城まで3年をかけ、城内の内通者を 動かし、ゆさぶりをかけて攻めた。秀吉が諜報戦の主役であったことはいうまでもない。長政は妻と娘が落ち延びたことを聞き、命を絶った。信義と裏切りの交 錯する戦国の世を生きるには、駆け引きにもたけていなければならない。長政は好まなかった。信長の和平使者として秀吉が小谷に来ることを知り、長政の腹は 決まった。「否」である。秀吉の権謀術数に乗るよりも死を選んだ。29歳。雪が深い小谷の冬は15歳から戦場に出た長政にとって戦の心配のない、家族との 安らぎの日々だった。
  虎姫、河毛の次は高月駅。駅から2キロほど歩くと、雨ノ森地区がある。江戸時代の儒者、雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の出身地。芳州は江戸の木下順庵の 門下にはいり、新井白石らとともに英才の評価を受けた。師の推薦で元禄2年に対馬藩お抱えの学者になり、66年もの間、朝鮮の政治、文化の研究に没頭し た。地元高月には「芳州文庫」があり、「国を知ると、その国が好きになる。その国の不幸も知る日本人でありたい」と、善隣友好を説いた。芳州については近 年まで歴史の表にでることはなかった。彼の著、業績を知った研究者は一様に驚く。そのはずだ。鎖国下の江戸時代半世紀もの間、半島の交流を研究した日本人 はいない。朝鮮の人情、風俗など文化の理解を訴え、貿易の必要性を力説した。幕府からの迫害も受けたが、屈することなく自説を曲げなかった。そのために白 石との交流も絶っている。国際感覚を備えた江戸時代の学者として再評価され、半島との交流史では欠かすことのできない日本人である。
  高月のもうひとつの文化は観音の里。渡岸寺の国宝十一面観音立像は井上靖『星と祭』で一躍、有名になった。高さ195センチ、頭の飾りを除いてヒノキの一木彫 り、平安初期の作である。腰がくびれた官能的な姿、眉から鼻にかけての線は平安美女をほうふつとさせる。姉川の合戦で寺は焼けたが、村人の手で土中に隠さ れ難を免れたエピソードの持ち主。
  SLは 観音の里をぬけ、終着の木之本に着く。ここから北は一里一尺の言葉があるように雪が深くなる。参勤交代で江戸へ向かう福井藩士400人が雪に見舞われ、遭 難したこともあった。駅の西は賤ケ岳。本能寺変の後、信長後継をかけて秀吉と柴田勝家が争った戦いは秀吉の勝利に終わり、勝家は越前に逃げ、自刃してい る。標高423㍍の山は雪にすっぽり包まれている。長浜を出発して停車駅ごとに北国の風情が民家に漂い、木之本の山沿いは柱を外壁に塗りこみ、梁も太く、 雪に備えた造りになっている。福井の西から琵琶湖北に見られる特徴は木之本の隣のかやぶき集落余呉に行くと、さらにはっきりしてくる。
  SLを木之本で降り、北陸本線の列車に乗り換えた。列車は余呉で西に大きくカーブ、羽衣伝説の余呉湖を左に見てトンネルにはいる。北陸線は当初、西にカーブしないで柳ケ瀬まで直進するコースになっていた。ところが柳ケ瀬トンネルはSLの難所で、煤煙による死亡事故やSLがバックする事故があとを絶たず、東京オリンピックの年に余呉トンネル経由に変更された。旧トンネルは現在、車が利用しているが、内部は昔のままで訪ねる鉄道フアンも多い。
  余呉トンネルを抜けると塩津である。琵琶湖の北端に位置し、古代から北陸と大津・京を結ぶ湊だった。塩津で北陸本線は西回りの湖西線とつながり、琵琶湖1周コースができたが、周遊列車は運転していない。ここで湖西線に乗り換え、大津へ向かうことになる。今回はSL乗車のため、利用しなかったが、大回りの「一筆書きの旅」というJRの認めている乗り方なら、途中下車(改札からでない)なしで琵琶湖周遊すると、1区間の料金ですむ。塩津駅で「大回りの客さまはここで乗り換えです」とマイクしていた。約3時間、冬の湖北をながめて過ごすJRの旅は、120円。電車好きには一度、始めると病みつきになる。
  湖北に負けられんと、湖西も大雪だ。今津の琵琶湖は波が高かった。琵琶湖就航歌を口ずさむ。
     ♪行方定めぬ浪まくら、きょうは今津か長浜かあー。 
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           メモ 全国のSL北から南
  北海道は冬の湿原号(釧路―標茶)、夏のオホーツク号、GWの函館大沼号などがある。東北は今年春から運行のSL銀河(釜石―花巻)。土日祝日運転。信州はSL信濃川ロマン号。秋運転。関東は茨城の真岡鉄道が土日祝運転。老舗の静岡の大井川鉄道は毎日。北びわこ号は春と秋。やまぐち号は土日、祝日のほか正月運転。
  九州はSL人吉が土日、祝日。博多から鹿児島まで途中、SLと電気機関車が交代の特別列車もある。 
       
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