第134回 王政復古150年続編は木曽馬籠宿から

  島崎藤村が描いた「夜明け前」をゆく〜

  王政復古150年の今年、島崎藤村の大作「夜明け前」が読まれているそうだ。上下4巻もある小説は、はなから敬遠して全巻を読み通したことはなかった。最初の「木曽路は山の中」から馬籠の紹介まで「序章」に目を通して読んだ気になっていた。

 時間に余裕があり、若い頃よりも歴史に興味を持ったいま、『夜明け前』は恰好の日々の友である。

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  序章の木曽路紹介 が素晴らしい。テンポ、描写とも中山道に誘い込む。いつしか、木曽路を歩いていた。江戸まで中山道83里、京まで60里の木曽11宿を藤村は『あるところ は岨づたいにいく崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である』と、冒頭に紹介した。11 宿の最初が馬籠である。藤村が生まれ育った宿場だ。

  昭 和4年(1929)、金融恐慌のさなか、藤村の大作『夜明け前』は世にでた。馬籠を舞台に歴史の定点観測ともいえる手法で黒船来航から明治維新までの宿場 の庄屋と馬籠宿を描いた。雑誌「中央公論」に7年にわたり、連載された。藤村は56歳。モデルは藤村の父、島崎正樹である。文庫本4冊に収まった大作が江 戸や京、幕末維新の城下でない、街道宿であることも異色の設定だ。作品の世界に入る前に、街道を歩いてみたい。

  馬籠は木曽11宿(88キロ)の南端に位置し、美濃境に近い。中山道は近江草津東海道で分岐して美濃、信濃、上野をへて板橋から江戸日本橋に通じている。鉄道は中央線の中津川駅でおりてバス30分で宿場に着く。馬籠は明治28年と大正4年の火災で建物の大半を失い、残った石畳と枡形の上に街並みを復興した。山坂の石畳は風情があるが、旧街道情緒は隣の妻籠宿に一歩ゆずる。

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  藤村記念館は生家の本陣跡に立ち、藤村の蔵書や原稿などを展示している。小説の主人公青山半蔵は馬籠の本陣・問屋の跡取りに生まれ、家業に閉じこもることな く当時の平田篤胤国学に心酔、維新の激動にまきこまれていく。平田国学本居宣長とともに江戸末期の国学の柱になった学問で、仏教、儒教の外来思想を排除 して日本古来の神道の国づくりを主張した。篤胤は宣長古事記に影響を受け、弟子入りするも後には独自の思想を唱え、宣長派とは対立した。

  神と仏を習合した平安以降の宗教は形骸化し、武士、庶民の心から離れていた。江戸では金で武士になる町民が出てきていた。当然、生活困窮のため、身分、家屋 敷を売る侍もいた。外圧と内圧に揺れる徳川末期において尊王攘夷運動が広まるのは必然ともいえた。武士と庶民の不満が運動の背景に支持あり、平田派国学が 影響を与えたのはいうまでもない。木曽から濃尾にかけては平田国学が隆盛になり、主人公青山半蔵は篤胤の過激ともいうべき思想に染まり、御一新にかけて奔 走する。しかし、古代復帰を夢見た半蔵の願いは新政権でことごとく破られた。

  藤村はこの小説で問いかけたものは評論家松岡正剛が指摘するように「王政復古」を選んだ歴史の本質はなんであったのか、であった。本居宣長が唱えた古代日本 の心はどこかにいき、国家神道が独り歩きして、「脱亜入欧」の文明開化、富国強兵の「御一新」は半蔵の心を揺さぶり続けた。

  大学4年の頃だったと、思うが、都市センターホールで上演の民藝の「夜明け前2部」を見たことがあった。新劇はおろか劇と名のつくものは学芸会以外知らない 門外漢が出かけていった理由はいまだにわからない。滝沢修演じる青山半蔵が終幕近く錯乱状態で登場し、蕗の葉を頭にかぶり、舞台を歩くシーンは克明に覚え ている。

  序章の最後は黒船来航を告げる彦根藩の早飛脚の通過で終わっている。黒船来航から明治維新までの木曽路の物語が幕を開ける。

  馬籠の南隣の宿は妻籠である。行き来するには峠越えをしなくてはならない。昔の人なら苦もなく超えた山は、木立の間に石畳の道に整備されても現代人にはつら い。スポーツの世界でも共通するが、歩いて一汗かくと、体がかるくなる。2時間半の道で妻籠宿。街道宿は人間の歩く頃合いの距離にあわせて設定されてい る。シルクロードのオアシスがラクダで一日の距離ごとにあるのと同じ理屈だ。

 妻籠は小説の青山半蔵の妻、民の生家があった。民は妻籠本陣の娘に生まれ、馬籠へ輿入れしてきた。藤村の初恋の相手おふゆさんの嫁ぎ先は脇本陣奥谷。本陣は 藤村の母ぬいの生家。馬籠が火災で幕末の宿場風情を失ったいま、妻籠は明治以前の宿場街並みを保存する文化遺産である。鉄道や道路の開通に取り残された過 疎の宿が悩んだすえ選んだ古い町並み保存は運動として成功した。夕方、灯のはいる宿場は、江戸の息遣いを取り戻して、よかった、よかったと語りかけてく る。

  江戸末期の木曽路では歴史もまた宿場で休み、土地に足跡を残していた。青山半蔵が外の世界に呼応して活動できる木曽路であった。

  小説(一部上)で隠居した半蔵の父と甥の栄吉の会話が出てくる。街道の空を見上げた父、吉左衛門はこういう。

  『今までお前、参勤交代の諸大名は江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて京都の方へ参朝するようになったからね。世の中も変わった』

  この会話の時代は松平容保京都守護職になった王政復古の直前の頃になる。

  王政復古の知らせが木曽に届いた日、半蔵らは歓び、宿場を歩いた。『一切の変革はむしろ今後にあろうけど、ともかく今一度、神武の創造へー遠い古代への出発点への立て直しの日がきた』と、草鞋で雪解けの道を踏みしめた。

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  前半が歴史家からも資料的評価の高い木曽宿の詳細な描写と宿場の人たちの暮らしぶりを追い、そこへ街道をゆく歴史の流れをはめこむ手法。展開の面白さにかけ るが、後半の青山家が傾きはじめ、半蔵の夢が挫折していく維新の流れはドキュメンタリータッチで描かれ、一喜一憂する宿場の人たちにとって王政復古とは何 だったのか、と、問いかけている。木曽の山を民有林にする願いは却下され、落胆する半蔵の心を追う終焉は、歴史小説を離れた人間ドラマになっている。

  学生時代に観た民藝舞台のラストは人間半蔵の姿を鮮やかに浮かびあがらせ、強い印象を受けた。滝沢修の演技によるものと思っていたが、藤村は真っ正直に生き、歴史に翻弄されつつ、ロマンを求めた人間を半蔵に重ねたと、思い直した。

  作中(2部下14章)に気がふれた半蔵が万福寺に向かう途中、子どもたちからもらった蕗の葉をかぶって村人にあう箇所がある。半蔵が寺に火を放ちに前であ る。半蔵は座敷牢にいれられ、死を迎える。半蔵の旧友景蔵は中津川から馬籠に半蔵の病を気にかけてやってきて乱心を知った、藤村は彼の回想と半蔵を師匠と 慕う勝重との会話から、維新、王政復古について問い直している。

  『新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸をあわせながら出発した人の心はすくなくとも純粋であった。しかし、維新の純粋性はそう長くつづかなかった。それが3年も続かなかった』

  平安時代からの「和魂漢(洋才)」の思想は政治性の強い「脱亜入欧」に置き換えられ、古代回帰の夢は消えてゆく。富国強兵の日本である。小説のラストが半蔵の墓を掘る鍬(すき)の音で終わっているところも暗示的である。気鋭の評論家篠田一士は「夜明け前」をトルストイの「戦争と平和」の横にいる世界の10大 歴史小説にあげた。カフカプルーストジョイスなどの中に藤村作品を入れた。

  海音寺潮五郎司馬遼太郎など幕末維新を素材にした歴史小説は少なくない。しかし、すべからく上から目線というか、下からのぼる成功物語である。「夜明け 前」は木曽路というなじみのなさと、ヒーロのいない内容などの理由から評価は分かれた。来年は明治維新150年になる。NHKでも民放でもいい。竜馬や新 選組だけでなく藤村の『夜明け前』大河ドラマにする気構えがほしい。

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