第136回  稀有なJR鉄道の飛び地、城端線をゆく

  〜合掌集落の生活を支えた絹織物の門前町


  冬、雪に閉ざされた白川郷はじめ五箇山の合掌集落が江戸、明治、大正と生き延びた理由は合掌集落を歩いた だけでは理解できない。白川郷を歩いてまず感じた。大家族が冬を過ごしてくらすには、食料など生活物資のストックなしには成り立たない自然環境である。北 山の炭焼き集落との違いだ。集落を支えた経済交流、支援する町の存在ぬきには語れない。その役割を担ったのが五箇山の入口にあたるのが城端(じょうばな)である。

  白川郷からバスで小一時間の距離。歩けば1日かかるだろう。江戸期は1泊 2日の道のりだ。五箇山の生糸は城端に運ばれ、絹製品になって加賀藩に上納された。往来の困難の道を城端商人が通い、その交易で財をなした。商人らは五箇 山貸しと呼ばれた商いで合掌集落の住人と結ばれ、秋に生活資金の前貸しをして冬の生活費を提供し、商人らの城端の家には五箇山住民らの泊まる部屋、ふとん もあった。

  城端山田川と池川に挟まれた段丘の地形の上に町が東西に延びている。風の盆の八尾に似た地形だ。舌状の台 地は古くから城ケ鼻と呼ばれ、山田川の北には高岡を起点とするJR西日本城端線の終点の城端がある。明治30年、中越鉄道の路線として開業、その後、国鉄 が経営し、民営化でJR西日本の飛び地路線になった。飛び地線は大湊、七尾、八戸の計4線しかない。

 高岡から城端30キロ㍍の単線に14の駅がある。終点の向こうは山と川、田園が広がる。鉄道マニアは行き止 まりの駅は夜行で着くのが一番というが、確かに哀愁と寂寥感が足元からしのびより、旅のロマンに浸れるものの、やはり暗い。ここは朝の駅とまちあるきを楽 しむことにした。
     

  駅の向こうは五箇山、川、田園の風景がひろがり、行き止まりの駅とは思えない奥行きを感じる。というのも五箇山合掌集落と交流の歴史が浄土真宗大谷派東本願寺)の名刹、善徳寺の門前町としての隆盛に溶け込み、風格のある町を築いた。

  狭い道、折れ曲がった坂、石積の上の土蔵は下見板を打ち付け、漆喰の扉で固めている。城端のランドマークに あたる善徳寺は中心部に位置し、元は戦国期に城端を支配していた豪族荒木氏から土地、建物の寄進を受け、蓮如が開基した。一向宗一揆の拠点になり、織田信 長との石山本願寺合戦では北陸門徒の力を信長に見せつけ、以来、北陸真宗門徒の信仰を集めた。城端別院の名がある。江戸時代には城端発展とともに寺勢は増 し、越中触頭(ふれがしら、頭寺)役になった。城郭を思わす豪壮な山門は、彫刻を施し、火災を経験していないため、貴重な文書が残っている。

 五箇山街道の旧本通り、坡場の坂は豪商をしのぶ 屋敷、蔵が残っている。火災や建て替えでかつての町並みは途切れているが、随所に江戸時代、加賀と五箇山の交易基地で栄えた建築が出迎え、合掌集落を思い 浮かべてはるかなるロマンにひたる。豪商の土蔵を結んだ蔵回廊は民俗資料館でもある。5月の曳山祭は6町の神像が乗り、全国の曳山屈指の豪華絢爛の絵巻。 曳山には庵屋台がつき、京都祇園の一力茶屋、江戸吉原の料亭を模して贅を尽くし、城端の経済力を見せつける。土地の人は「夢を曳く」というが、これほど曳 山祭りの心をいいあてた言葉はない。 

     
     

  五箇山の生糸は城端で絹に織りあげられ、加賀絹のブランド名で京へ運ばれた。

  城端の半分以上の家が絹織物に関係し、坂のある町に機の音が聞こえない日はなかった。天保年間にひとりの少年がこの町から京へのぼり、西陣で織物業を興し た。川島織物創業者川島甚兵衛。染織から美術工芸の分野で定評のある同社は五箇山城端―京の絹の道につながる。この町には新町の地名がある。五箇山から移住した住民が居を構えたところで、住民らは五箇山のむぎや節を踊って故郷をしのんだという。戦後になり、町の行事に発展し、曳山とともに城端の名物行事になった。むぎや節には平家落人の伝承があり、歌詞にはこうある。

   〽むぎや菜種は2年で刈るが、麻は刈られよか半土曜に 浪の屋島を遠くのがれきて
   薪にこるてふ深山辺に 烏帽子狩衣脱ぎうちすてて いまは越路の杣刀

  麦や菜種は2年 の命ながら麻はわずか半年の短い命と平家滅亡後、落ち延びた歴史を唄にしている。合掌集落は江戸期に生まれ、そのはるか昔は伝承の世界であるため、平家落 武者が五箇山のルーツとする見方は推測でしかない。戦国期にここで火薬の原料の硝煙づくりに携わった住民がいたことは文献にあり、この住民が平家伝説につ ながる可能生はある。ただ加賀藩五箇山流刑地として政治犯などを送り込んでいる。平家と流刑人、さらには監督の武士らと原住民が融合して暮らした陸の 孤島、五箇山にむぎや節は広まった。いまではおわら節、こきりこ節とともに富山三大民謡に指定されている。

  早いテンポと哀調のあるふしまわしのルーツはなんと 佐賀県唐津沖の馬渡(まだら)島の漁師唄といい、日本海を北上して能登半島にもたらされた。明治の宴席の祝儀唄「めでためでたの若松さん」で知られるあの 歌である。地元砺波高校の体育祭では全校生徒が伝承のむぎや節を踊り、地元民の喝采を浴びる。山分け入り、雪に閉ざされた山奥の地の春、住民らは白から緑 に模様替えした風景の中で歌い、踊った。

  まち歩きを楽しんだあとは、今回の旅の目的である城端線の終着駅に 向かった。一日の乗降客は300人余の駅はひっそりしている。合掌集落の世界遺産指定でバス便が各地から運行され、かつては冬場は五箇山と結び唯一の鉄道 であったが、いまやバスの後塵を拝している。それでも車窓の風景を求める鉄道フアンにとって人気路線のひとつ。キハでゆく砺波平野はまことにのどかで、乗 客同士の会話もはずむ。高岡まで1時間の汽車の旅は退屈しない。 

  明治30年5月、黒田仮停車場―福野間で開業、10月には城端駅ができて翌年、全面開通した。城端の絹製品搬送の比重が高いものの、五箇山の住民にとって町といえば城端しかなかった山奥に高岡の風を運び込んだ。

  近江鉄道でも経験したが、城端線鳴り物入りではしる。ガタン、ゴットン、チンチンと線路の継ぎ目がメロー デーを奏で、これを聞きにくるマニアもいる。沿線には高校が散在しているため、通学の足として欠かせない青春路線である。朝、夕にはにぎやかな笑い声が車 内にひびき、あの鉄路ガタン、ゴトンとともに城端線鉄路音楽隊になる。赤字路線の悩みも朝夕の音楽がふっ飛ばしているのだろう。

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