第143回  鈴鹿越えの伊勢参りはここ「関」の宿から

東海道で唯一、残った宿場町並み〜

  関西から伊勢に行くには鈴鹿越えの旧東海道を行くか、大和から伊賀越えの道を歩くのが江戸時代の参拝ルートになっていた。伊賀越えは本能寺変のさい光秀の襲 撃を予想して伏見にいた徳川家康東海道を避けて、命からがら駿府へ戻った大和街道の難所である。鉄道は関西本線がこの道にはりついている。大阪からなら 伊賀越えが最短距離になるが、京都からは中山道の分岐点、草津宿を経て土山宿から鈴鹿峠を超え、最初の宿が関津である。
  江戸から47番目の宿にな る。
  関町(亀山市)は鈴鹿山系の山間のため、傾斜地が多く、鈴鹿川と加太川の合流する扇状地に家並みが東西に延びている。全長1・8キロ。中心になるのが中町で、本陣、脇本陣など旅籠がここに集まっていた。天保年間の宿村大概帳によると、旅籠の数は42あり、飲食店は99軒にのぼった。
  関宿の町並みは天正年間に土地の豪族、関盛信が手がけ、家康の宿駅制度とともに繁栄した。もともと近江との国境を接する戦略的拠点に位置し、古くは大和で挙兵した大海人皇子天武天皇)が大和から伊勢、美濃にはいり、逆に西進して近江で勝利した歴史がある。
  旧東海道宿駅は中仙道に比べて都市化が進み、往時の建築は姿を消し、ここ関のみが町並みを残した。
  鈴鹿麓という立地が都市化の壁になり、53次まれな景観は1984年、国の伝統的建造物群保存地区に指定された。
  約2キ ロの町を旅人よろしく歩いてみる。近江からの旅人は鈴鹿越えを終えて、晴れ晴れした気分で町歩きを楽しみ、近江へ向かう旅人は緊張しながらも峠越えに備え て、英気を養った。町の東端は東の追分といい、伊勢別街道の分岐点である。鳥居は伊勢神宮が20年に一度の遷宮に神社から移されるお木曳。お伊勢参りはこ こから外宮、内宮へ向かった。
  西の追分は鈴鹿寄りの東海道大和街道の分岐点にある。東西追分の中央の南北に延びるの道の先に関西本線「関」駅がある。鉄道は旧東海道に沿って走り、東に亀山、西に加太(かぶと)駅がある。加太と柘植間の加太越えはSL時代、鉄道マニアがしびれたカメラスポットだ。
  関中町へ 戻る。電線の地中化で空間が広がり、のびのびする。旧西尾脇本陣跡向かいに関まちなみ資料館がある。黒い虫籠窓に、連子格子、おりたたみ椅子のばったりの ついた中二階の建物だ。間口は6㍍なのに奥行き広い。ここには宿場の生活品や古地図など資料が展示してある。関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まる会津 屋か、伊勢参宮の歌にある。
  二階には部屋に布団をしいて旅籠の雰囲気があじあわせる。布団敷いたらいっぱいの広さは現代のシングルルーム。安藤広重東海道五十三次の「関」宿は「本陣早立」の題がついている。
  鈴鹿を前にした大名たちが気もそぞろに宿を後にした朝のにぎわいを描いたものだろう。
  宿場にはさまざまなドラマがある。そのひとつに関の小萬の仇討ちが有名だ。
  九州・久留米藩剣道指南役牧藤左ヱ門の妻は夫の敵討ちを志し、久留米から関まできた。妊娠中の妻は山田屋に滞在して女児小萬を生んだあと、病没した。行き倒 れに近い妻は山田屋の主人と女将に娘を託すさい、小萬の父の死のいきさつを告げていた。山田屋主人は亀山藩剣術指南のもとで修業させ、小萬も女剣士に成長 する。主人から両親のことを知らされた小萬は仇討ちの機会をうかがい、亀山城下で父の仇討ちの本懐をとげた。小萬18歳。母親が久留米から関宿へ来る経緯 は定かでないが、父の仇である小野軍太夫亀山藩に仕官していたといわれ、妻が身重にかかわらず郷里をあとにしたようだ。
  久留米藩は内政に問題をかかえ、牧藤左ヱ門の刺殺事件当時は27人が処刑された宝暦の一揆から落ち着きを戻した頃になるが、7代藩主頼僮(のりゆき)は算術 にすぐれた学者藩主の評がある一方、長きにわたる施政は藩のひずみ生み、自身も25人の側女をおくなど化け猫騒動の因になった藩主のひとり。小萬が本懐を 遂げた天明3年に死亡している。実に70年もの間、藩主に座った。
  小萬はその後、御家再興の道を選ばず、山田屋の娘として関の人になり、36歳の若さで人生を閉じた。小萬は絶世の美女と伝わり、山田屋は小萬人気で繁盛した というが、仇討ちの小萬の顔見たさの客がつめかけたのだろう。墓は宿場の福蔵寺にある。街道には小萬のもたれ松の碑が立つ。これは亀山へ剣術修業に行く小 萬が土地の無頼を避け、隠れた松の説明がついている。山田屋の後は会津屋になり、そば店に代替わりしたが、店には豊国三作の錦絵小萬のコピーがかかり、楽 しい。
  宿屋跡には馬つなぎの環金具が連格子の残り、宿場の賑わいをしのばせるが、宿場と旅人とのふれあいは心温まる。旧伊藤本陣の並びに古い突き出し看板が目にと まった。藍染の暖簾に「関の戸」と染め抜かれた和菓子の店だ。創業から350年の老舗。現当主で13代を数える。寛永年間から赤小豆のこしあんを白いぎゅ うひで包んだ餅菓子は関を代表する銘菓。店内も昔のままのたたずまいを守り、関名物の誉れも高い。
  「終戦直後に4年ほど店をしめました。なんせものがない。しかし、ここで商売を続け、町並み保存までこぎつけた。なんでここが残ったのか。よくみなさん聞きますが、立地もあるでしょうが、年寄りが頑固だったせいもある」
  町並み保存では中山道の木曽宿に注目があつまるが、関は地道に町家の修理、修景に取り組み、個を面に発展させてきた。最初から保存という大きな目標があったわけではない。宿場の良さを残したい住民の思いが線になり、面になっていった。
  古い町を残すのがいいとはいわない。しかし、歴史遺産を守り、活用するのは住民の役割だろう。私の住む大津など歴史の町並みをことごとくなくしている。いまになって東海道町並み再興のまちづくりを進めているが、遅きに失した感が強い。
  関には宿場のほかにもうひとつの門前町の顔が名高い。
  「関 の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿にとる」と、唄われた真言宗御室派地蔵院の地蔵菩薩像は、日本最古の地蔵菩薩といわれ、愛染堂(国指定重文)は室町初期の 建立で、庭園の築山にある桜の古木は藤原定家の歌に詠まれた。地蔵院の歴史は古く天平時代、行基の開祖と伝わる。街道を行き来した旅人がここで道中の安全 を祈願した。小萬の母も地蔵菩薩に祈り、山田屋夫婦に救われたにちがいない。
  帰りはJR関駅から関西本線にのった。関宿は明治以降も宿場で繁盛したが、明治23年 の鉄道開通は宿場町を眠りから起こす蒸気の煙になった。関―柘植間の薄の原を行く加太越えは、観光用にわざわざ造ったような変化に富んでいる。渓谷でない からスルリこそないが、ススキをかきわけ高原を走る気動車の風情は関宿をあとにするにふさわしい余韻がある。               *