『社会学評論』の千田論文について(3): スコットランドの事例

 ここ数日のやりとり*1について千田さんがまとめられたようなので、私のほうでもまとめておきます。

 

 といっても私の主張は最初にブログで書いたことにほぼ尽きています。

 すなわち、スコットランド政府の組織内産休方針の文言において

you must be the expectant mother’s spouse or partner

という表現が

you must be the spouse or partner (including same sex partner) or*2 the pregnant woman

という表現に置き換えられたことについて、千田さんの論文のように「「母親」という言葉自体が、トランス差別であると批判さかねない」がゆえに「スコットランドでは妊娠出産政策から「母親」という単語が削除された」と理解するのは誤りだ、ということです。

 

 以下ではこの主張について少し丁寧に説明しておきます。

 

 第一に、組織内の産休方針 maternity policy を「妊娠出産政策」と訳すのは間違いです。千田さんは「政策はポリシーでしょう」と仰っていましたが、「政策」の英訳がpolicyでもpolicyの和訳として常に「政策」が正しいとは限りません。組織のprivacy policyは通常「個人情報保護政策」とは訳しませんし、何より政府の組織内方針を「政策」と訳したら政府がおこなう公共政策と区別がつかなくなります。ましてや千田さんは「スコットランドでは妊娠出産政策から・・・」と書かれており、当該方針の適用対象である政府組織にすら言及されていないのです。この文章から、「妊娠出産政策」が「政府組織内の産休方針」を指すと理解することは不可能であり、したがってこの訳は間違いです。

 

 第二に、上記の表現の置き換えはストーンウォールという人権擁護団体の多様性推進指標にスコットランド政府が従うことでおこなわれたものなのですが、千田さんはストーンウォールの働きかけの結果であることをもって「「母親」という言葉自体が、トランス差別であると批判さかねない」がゆえにその言葉が削除されたという証拠になると考えていらっしゃるようです。しかしこれも間違いです。

 ストーンウォールは当然ながらジェンダーニュートラルな言葉使いを求めているわけですが、そのことと、スコットランド政府が「母親という語をトランス差別的であると判断したがゆえに」削除したかどうかは当然論理的に別の話です。

 したがって「スコットランド政府が母親という語をトランス差別的であると判断したがゆえに削除した」という事実の根拠は未だ示されていません。なお千田さんはデイリーメールやテレグラフといった保守紙の記述を根拠として挙げてらっしゃいましたが、そもそも論文中ではそうした新聞記事を参照したことさえ記載されておらず、あたかも自明の事実であるかのように書かれていたのであり、論文における事実の提示の仕方として不適切であることも変わりありません。

 何より何度も述べているように、mother が pregnant woman に置き換えられたことを、「「母親」という語がトランス差別的だから」と理解することは困難です。mother はジェンダーニュートラルではないがゆえにトランス男性やノンバイナリーの人の妊娠を包摂するのに難のある言葉ですが、pregnant woman もまったく同じだからです。だからこそ、ストーンウォールはフィードバックの文書において「もっとジェンダーニュートラルに」とコメントしているのです。*3

 

 第三に、第一点と第二点の帰結として、千田さんの論文のこの箇所の記述はよくある「トランス差別の紋切り型」をなぞっているという私のもともとの評価が変わることはありませんでした。

 そもそも

スコットランドでは妊娠出産政策から「母親」という単語が削除された

という注は、

「母親」という言葉自体が、トランス差別であると批判さかねない

という本文についているものです。そして本文にはその後に、

政治的に正しい表現は、「子宮をもつひとが出産する」となる。

という文が続きます。

 これを読めば、「母親」という言葉自体(文脈を問わず語そのもの)が「差別」であるとされ、「政治的に正しい」語に置き換えられることが進んでいるという事態が記述されているように見えるでしょう。スコットランドの事例はこの流れの中で紹介されているのですから、あたかもスコットランドでそのようなことが起こっているかのように読者に理解させるような紹介の仕方になっているわけです。

 加えて、組織内の産休方針を「妊娠出産政策」と訳したことは、あたかも公共政策の場においてひどく乱暴なことがおこなわれているかのような印象を与えることで、事態を「より悪く」見せる効果を持ってしまっています。

 しかし実際には上に説明したように、表現の置き換えは、産休方針において組織内の性的マイノリティを包摂するという文脈でおこなわれたもので、しかも「母親という語がトランス差別的だから」おこなわれたと理解するのは難しいもので、ましてや「子宮をもつ人が出産する」などという表現などとは無関係のものだったのでした(そもそもこの表現の出典もわからないのですがどこなんでしょうね)。さらに言えば、産休制度から取りこぼされる人がないようにより包摂的な語を使おうとすることは、ある語を「差別的」だとすることとも同じではありません。

 こうして、千田さんの論文のこの部分は、「あたかもいつでもどこでも特定の言葉を使うことを禁じる言葉狩りが行なわれているかのよう」な不当なことが起こっていることをほのめかす記述になっており、しかもそれが「トランス差別」を訴える人たちによって引き起こされているかのように読めるような記述になってしまっているのです。

 

 トランス差別に反対することをことさらに理不尽なことのように描くバックラッシュ言説は千田さんが参照されている保守紙などを中心にあふれかえっています。安易にそうした言説の紋切り型をなぞるようなことをしないでください、最初から一次資料にあたってくださいというのが私からのお願いです。

 なお私の指摘に対して「ひとつの注にいつまでもこだわって」というようなことも言われていますが、今回はたまたまスコットランドの事例についての指摘を揶揄されたのでブログでの説明を敷衍しただけであって、ブログで指摘した他の箇所についてもおおむね同じような問題を感じているということも申し添えておきます。

 

*1:画像にしてくださっている方がいました。

*2:of の間違いだと思われます

*3:ちなみに千田さんが参照されているフィードバック文書は2020年のものであり、当該の変更に対する2019年のフィードバック文書ではありません。

『社会学評論』の千田論文について(2)

2022.4.21 追記あり

2. トランスイシューに関する記述について

 前のエントリの続きです。こちらのほうが本題。

 先に述べたとおり、6節はここだけ「フェミニズムジェンダー理論」の著作の紹介という形をとっていないという点で異様なのですが、その代わりに語られている著者自身の時代診断のうち、トランスイシューに関する部分は特に問題が多く、「現在こうなっている」と著者が語ることの多くがトランス差別的なクリーシェをなぞっていると私は思います。

 ぱっと見で気づいたところだけ順番に引用して指摘していきます。

こんにち、「女性が子どもを産む」という身体的な特徴の描き方のみならず、「母親」という言葉自体が、トランス差別であると批判 さかねママ ない。出産する「トランス男性」や出産できない「トランス女性」に対する排除的表現だからだ。政治的に正しい表現は、「子宮をもつひとが出産する」となる。このようにいわば、女性の身体のみが, パーツ化されていく傾向があり、たとえば男性が「前立腺のあるひと」とよばれたりすることはあまりない。(pp. 426-427)

 「トランスジェンダーをめぐる論争が先鋭化している」と言われて最初に唐突にでてくるのがこの文章です。「○○という言葉自体が差別であると批判されかねない」という言い方はいかにも差別を指摘する主張を戯画化するテンプレという感じです。ちなみにこの文には注がついていて、「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」と書かれています。しかし私が調べた限りでは、スコットランド政府が

  • 「母親」という語がトランス男性およびトランス女性を排除するものであるがゆえに
  • 妊娠出産政策からその語を削除した

という事実を確かなソースにもとづいて見つけることはできませんでした*1。「政策から削除した」という書き方も曖昧で、何の文書のことなのかちゃんと特定した上で断定しているのか、非常に不安になります。普通、こういう誰でも知っているわけでもない事実を論文で提示するときにはソースをつけますよね。

 ともあれ内容的には、トランス男性やAFAB(出生時に女性に割り当てられた)ノンバイナリーに配慮する表現を女性差別的だと指摘することはよくあるトランス差別言説であり、論文の記述はそれに非常に近いものになっています。有名なのはJKローリングが「生理のある人」という表現が用いられている記事を揶揄して批判を浴びた事件でしょう。

 ローリングが揶揄した記事について言えば、「女性」という言葉にトランス男性やAFABノンバイナリーに配慮する表現が不可されたのは、健康・衛生上の施策にトランスジェンダーの人々が包摂されてこなかった背景があるからです。時に命にもかかわるそうした施策から排除されてきた人々を包摂するという課題があって、その文脈で排除的な言葉使いが見直されているのです。そうした背景には一切触れずに、あたかもいつでもどこでも特定の言葉を使うことを禁じる言葉狩りが行なわれているかのような描写をおこなうことにおいて、「○○という言葉自体が差別であると批判されかねない」というのはトランス差別の紋切り型なのであり、論文の記述はそれをなぞってしまっています。

次。

第二波フェミニズムはたしかに、1970 年代には「遅れてきた」「最後の」革命のようにみえたがその後さらに新たな革命がおこった。ゲイ解放運動、そしてトランスジェンダーの解放運動である・とくにLGBT(Q) という概念がつくられたことにより、性的指向ジェンダー・アイデンテイティをめぐる運動が連結された。世界的には同性婚という目標が達成されたあと、運動の焦点はトランスジェンダーの権利獲得へと移行した。トランスジェンダーは「アンブレラターム」であり、トランスセクシュアル性同一性障害はもちろん、クロスドレッサートランスヴェスタイト、異性装) 等を包括的に含む概念である。トランスセクシュアルは身体違和からの身体変容を希望するが、トランスジェンダーは。生まれたときに割り当てられた身体のままでいたいひとたちを含んでいる。これらの「あとからきた」運動から、フェミニズムは「マジョリティ」である女性のための「排他的」な運動であると、激しい批判を受けることになった。(p. 427、強調引用者)

 内容としてはフェミニズムが同性愛解放運動やトランスライツ運動から批判されたという歴史的経緯が書かれているだけなのですが、すごく変な記述になっています。同性愛解放運動やトランスライツ運動が70年代以降に起こったという歴史観にもおおいに疑問がありますが、それは置くにしても、上の引用で太字にした部分は、段落の内容にまったく関係ありません。運動史の記述の中になぜ突然トランスジェンダー概念の解説が挟まるのか不明です。

 さらにそのトランスジェンダー概念の解説が問題含みです。「トランスジェンダー」がアンブレラタームであるというのは事実ですが、そのこと自体、脱病理化を求めてきた運動の歴史の帰結なのですから、「アンブレラタームだ」と言っておいて、「トランスセクシュアルトランスジェンダーは違う」というふうに医療/病理的文脈を持つ語彙と運動的文脈を持つ語彙を比較してみせるのは用語の歴史性を無視したおかしな解説です*2(運動史について述べてる箇所なのに)。そして、そのようにして歴史を無視した比較をすることで「トランスジェンダー」を一部のおかしな人たちのように印象づけようとするのは、やはりよくあるトランス差別のやり口なのです。

次。

すでに述べたように、バトラー等によって、セックスは構築物であるとされた。セックスが社会的につくられているのであれば、そこから自由になる権利が要求されるようになるのは、ある意味で当然の流れかもしれない。……アイデンテイティが社会的構築物であるという指摘は、その再編成を帰結し得る。「変更不可能な強固なジェンダー・アイデンテイティ」の物語から、「変更可能で柔軟なジェンダー・アイデンテイティ」(男でも女でもないノンバイナリーか、「昨日の自分は『女より』だったけれども、今日の自分は『男より』」といったジェンダー・フルイドまでを含む) の物語へと移行したようにみえる。(p. 427)

 こうした記述を読むと、まるでトランスジェンダー(とりわけノンバイナリーの人やジェンダーフルイド)の人が自分たちのアイデンティティについて、「変更可能で柔軟な」ものだと主張していると書かれているように見えます。しかし実際は逆で、トランスジェンダーの人がトランスをするのはむしろアイデンティティが自分の意思ではどうにもならないという意味で「”変更”不可能」なものだからでしょう。曖昧だったり揺れ動いたりすることはあるでしょうけれど、そのことと「変更可能で柔軟」であるということは論理的に言ってまったく別の話です。

 そして、ジェンダーアイデンティティをまるで自由につけかえられるアクセサリーのように捉えることは、自由にならないがゆえにシス中心社会の中で苦しむトランスジェンダーアイデンティティの軽視に繋がりますし、「変更可能で柔軟」という捉え方をするのはコンバージョンセラピー(アイデンティティを「矯正」しようとする療法)の正当化にも繋がります。いずれもトランス差別言説の中でよく出てくる紋切り型です。

次。

……女湯に関しては、 裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフID) が犯罪者によって悪用されるという懸念と、ペニスがついているからといって女性扱いしないのは「ペニスフォビア」だという主張との間で、激しい応酬がSNS を中心になされている。(p. 428)

 これは「一部のフェミニストの間にトランス排除の動きがある」と日本学術会議の提言の中で言われている背景について著者が自分の見解を述べている部分です。ここだけ読むと、「ペニスがついている」トランス女性を女湯に入れないのは「ペニスフォビアだ」という主張をトランス女性がしているように読めます。けれどそんな主張が「激しい応酬」を構成するような量でおこなわれているという事実は私の知る限りではありません。また、「セルフIDが犯罪者によって悪用される懸念」についても、実際にはそれだけでなくトランス女性そのものを潜在的犯罪者とみなすかのような差別的言説も数多くあるのですが、そのことには触れられていません*3。要するに、「対立」を紹介するにあたって双方の主張に対してチェリーピッキングがおこなわれ、「一部のフェミニスト」がまともに見えるような印象操作がおこなわれているように見えます。

最後。

主張されるべきは、トイレや風呂が「公共的に」整備され、何人も排除されず、万人に開かれていなければならないということであり、同時に「プライバシー」や安全が確保され、どのような身体もが、なにものにも脅かされるべきではないこと、そのイシューのために女性とトランスジェンダーは手を携えて連帯可能であるし、連帯すべきということではないか。(p. 429)

 書かれていること自体はごもっともなのですが、その中でさらっと「女性とトランスジェンダー」と書いてしまう、そういうところです。

小括

 以上、トランス差別のクリーシェと同型になっているところをすぐ気がつく範囲で指摘しました。細かく見ればもっといろいろ言いたいことはありますが、たかだか3頁ちょっとの文章にいくつもこうした点があるのです。しかも、著者の時代診断にはなぜそう判断したのかの根拠がほとんど示されていないため、読者は著者のその診断の真偽なり是非なりを事実を辿って検討することができません。読者が検討できない形でトランス差別的なクリーシェがなぞられているのは、学術論文として問題があると私は思います。

まとめ

 二つのエントリで千田論文の構成上の問題とトランスイシューに関する記述の問題を指摘しました。私はふたつの問題は関連していると思います。「自明ではない事実を書くときには典拠を示す」という論文を書く際の普通の作法が守られていれば、6節の記述はより問題の少ないものなったでしょう。またそもそも、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」を論じるという論文の趣旨に従って6節が書かれるのであれば、そこはトランスジェンダーフェミニズムの関係をめぐってこれまで論じられてきたことが紹介され検討されるべきだったはずです*4。そうなっていたら6節の内容はまったく違ったものになっていたでしょう。仮に編集者がトランスイシューに明るくなかったのだとしても(編集者もフェミニズムの専門家なので私はあまりそうは思えないのですが)、論文の通常の作法や、構成上の問題については査読段階で指摘できたはずだろうと私は思います。

 なぜそうならなかったのか、私にはわかりません。ただ、結果的にこうなったことによって、日本社会学会(の中のジェンダー研究者)にはトランスジェンダーに対する偏見や差別的感情があるのではないかという疑いが読者に生じたとしても無理のないことだと私は思います。私だってそんな疑いを持ちながら学会に参加するのは嫌だと感じますから、トランスジェンダー当事者の研究者(特に若手の研究者)にとっては学会参加が恐怖と感じられてしまうかもしれません。だから、この論文の記述に学問作法上の問題と倫理的な問題を感じる日本社会学会会員もいるよということを、まずは急いで表明しておきます。

2022.4.21 追記

 千田さんが私の「『批判』にこたえて」という文章を公開されたようなので少しだけ追記。

 まず私はこの件で千田さんと何か議論をしようとは思っていません。二つのエントリの目的はあくまで、差別的なクリーシェと同型の記述を含む論文が社会学評論のジェンダー特集の巻頭に掲載されたことに若手の研究者やトランスジェンダー当事者の研究者がショックを受けたり学会での研究活動に対して不安を覚えたりするのではないかという懸念から、「こうした記述を問題だと思う学会員もいる」という感想を表明することです。

 ですから、それに対して千田さんが「いやこのように差別的ではないのだ」という説明をされて、それを読んだ若手研究者や当事者の研究者が「なるほどよかった」と思って安心できるならそれで終わりです。私には安心できるような説明には思えませんでしたが、そのことをさらに千田さんご本人に説明しても上の目的に対して資することはありませんから、あとは読んだ人が考えればよいことです。

 一点だけ、私のエントリに好意的な方にも十分伝わっていないと思われる点があったのでそこだけ補足をします。このエントリで最初に疑問を呈している、「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」という千田論文内の記述についてです。

 この点について千田さんはこのように応答されています。

3.ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの検証を御存じないのですか?

小宮さんの力点は、批判の2にあるとご自身もおっしゃっていますから、こちらに移りましょう。まず小宮さんが

しかし私が調べた限りでは、スコットランド政府が
「母親」という語がトランス男性およびトランス女性を排除するものであるがゆえに
妊娠出産政策からその語を削除した
という事実を確かなソースにもとづいて見つけることはできませんでした。

というのにかなり驚きました。2021年の10月のBBCのNolan Investigatesのポッドキャストにおいて、政府、オフコム(英国情報通信庁)、BBC等が、ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの過大な影響下にあることが明らかにされたのは、この問題に関心がある人ならば、割と常識に属することかと思っていたからです。

千田さんはこのように大仰に驚かれて、リンク切れのタイムズの記事とデイリーメールの記事を「これがソースだ」と言わんばかりに掲載されているのですが、私は当然そのふたつの記事は知っているのです*5

 

 私がこのエントリで書いた疑問は、ひとつは

  • それらの記事で言及されている事実は本当に「スコットランド政府の妊娠出産政策」ですか

ということです。

 というのも、私が調べて(というか調べきれずに教えてもらって)わかった限りでは、ストーウォールのプログラムに応えて “you must be the expectant mother’s spouse or partner” という文が “you must be the spouse or partner (including same sex partner) or the pregnant woman” という文に置き換えられたスコットランド政府の文書というのは、政府組織内の産休ポリシーであって、政府の妊娠出産政策ではないようなのです。

 

 もうひとつは、その記述の置き換えが、千田論文に書かれているように、

  • 「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」「出産する『トランス男性』や出産できない『トランス女性』に対する排除的表現」であるという理由でおこなわれた

という根拠が見つけられないということです。

 そもそもふたつの文を見ればわかることですが、“mother” を “pregnant woman” に置き換えることがトランス男性やトランス女性への配慮になっているとは考えにくいですよね。

 

 以上二点から、「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」という記述の根拠に「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」という「事実」を何の注釈もなしに持ってきちゃってるの大丈夫ですか、と書いたわけです。

 さらに言えばデイリーメールが取り上げていることからもわかるように、ストーンウォールがやっていることを「言葉狩り」のように思わせるために「○○という言葉自体が差別だとされる」と言うのもまた反トランス言説のテンプレのようなもので、スコットランドの maternity policy の話もそのためによく持ち出される例のようです。

 そうした背景がある以上、「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」の例に「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」を挙げることを単なる「史実」として読めというのは無理というものです。

 まさか千田さんが反トランス言説のネットワークから情報を得てそのまま論文に書いているとは思いませんが、本当に「母親という言葉自体が差別であるという理由で妊娠出産政策から削除された」という事実があるのでしたら、信頼できるソースなり具体的な政府文書なりからそのことを示すのは、差別問題という繊細な事柄を扱う論文として必須だっただろうと私は思います。

 

*1:私が調べていて教えてもらい確認できたのは、スコットランド政府が政府内の産休ポリシーを修正したという事実だけで、これは「妊娠出産政策」についてのものではありません。

*2:トランスジェンダーに関する用語の歴史についてはこちらこちらなどを参照。

*3:さらに言えば法的性別変更の仕組と性別で分かれたスペースの運用の仕組は法的に同一ではないのですが、そのことにも触れられていません。両者を同一視して「セルフID」を攻撃するというのもトランス差別言説の紋切り型です。

*4:世界的にはフェミニズムの中のトランス排除は昔からある現象で、そのことに対するフェミニズム内での反省的考察もたくさんあり、特に2000年代以降のトランスフェミニズムの蓄積が触れられていないのはとても奇妙です。日本に限ってもトランスジェンダー当事者がフェミニズムについて論じた文章はあります。

*5:というかタイムズの記事はこれだと思うので、リンク切れてないですよ。

『社会学評論』の千田論文について(1)

 『社会学評論』*1の72巻4号で、「ジェンダー研究の挑戦」という公募特集*2が組まれています。この記事ではそこに掲載されている千田有紀さんの論文「フェミニズムジェンダー論における差異の政治」について、私の簡単な感想を記しておきます。

 千田さんはこれまでも(ご本人の意図はどうあれ少なくとも結果としては)トランスジェンダーに対する差別的な言説をエンカレッジしてしまうことになるような文章を書いてきており*3、その事情を知る人たちの間には評論掲載の論文もそうなっていないかという懸念がありました。実際に読んで、残念ながらその懸念が払拭されたとは言い難いという感想を私は持ち、そしてそのことは日本社会学会の会員として表明しておくべきだと考えました。

1. 論文の構成に関する問題

 トランスジェンダーについての記述について検討する前に、私にはそもそも千田論文の構成がよく理解できず、結論として何が主張されているのかをうまく読み解くことができなかったので、まずこのエントリではその問題について先に触れておきます。

 論文では1節冒頭で「本稿では、日本におけるフェミニズムジェンダー理論の歴史が、いかなる『差異』をめぐる格闘とともにあったのかについて、論じる」と書かれています(p. 416)。したがってこの論文は、それを読んだ後で読者が「日本におけるフェミニズムジェンダー理論の歴史は、このような『差異』をめぐる格闘とともにあった(と著者は主張している)」と、(その主張への賛否はともかく)理解できるように書かれているのでなければなりません。

 さてそのことを踏まえて2節以下のタイトルを見てみます。

 まとめの7節を除いて各節の内容はおおむね時代を追って書かれているので、読者としては各節の内容を読むことで、それぞれの時代において「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」がわかることを期待することになります。ところが実際にはそう読むのが難しいのです。順に見ていきます。

2節

 2節の最初に出てくるのはオランプ・ド・グージュの話で、キャロル・ペイトマンジョアン・スコットの解説がそこに挟まります。ここでまず「日本のフェミニズムジェンダー理論」の話じゃなかったの?と戸惑います。

 続いて出てくるのは江原由美子上野千鶴子。「差異か平等か」というフェミニズムが直面してきた問いのもつ陥穽を指摘するそれぞれの議論が紹介されます。でも江原さんの議論も上野さんの議論も、第一波どころか第二波以降まで含めてのフェミニズムを振り返った上での20世紀後半の考察なのですから、これを紹介されても「日本における第一波フェミニズムがいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」はわかりません。ここで、「あれこの節の目的なんだったんだっけ」と迷子になります。

 続いて出てくるのはメアリ・ウルストンクラフトです。また時代が200年戻ります。しかも20世紀末の日本の議論の後に「イギリスのメアリ・ウルストンクラフトもまた○○を出発点としている」という文で繋げられています。「もまた」による比較の仕方が理解できません。

 その後2節も終わりの頃にようやく「日本に目を移せば」と平塚らいてうと母性保護論争の話が出てきます。「母性」に立脚して権利を求める平塚が「差異派」、それを拒否する与謝野が「平等派」のフェミニストだと著者は評しているので、この部分が日本の第一波フェミニズムにおける「差異」をめぐる格闘だということになるのでしょうか。しかしそうであるなら、平塚や与謝野らの議論を中心に1節の内容はまとめられるべきであり、大部分を占めるそれ以前の部分は余計であるか少なくとも中心的主題とされるべきではないはずです。つまり、1節で告知された論文の課題に節の内容が対応していません。

3節

 3節に進むとウーマンリブの話になります。こちらは「日本の第二波フェミニズム」の話になっているようです。取り上げられているのは田中美津の議論です。母性神話批判、性別分業批判、近代国家のシステムの中に「女」がどう組み込まれているか、優生保護法改悪反対運動の議論などが紹介されています。

 これらの議論はウーマンリブについて勉強したことがある人なら詳細を知っているかどうかは別にして目にしたことはあるだろうと思います。さて、では著者はこれらの議論をどのように「差異」をめぐる格闘として読み解くのかなと思って読むと、その議論が出てこないまま3節は終わります。じつに3節には「差異」という言葉が一回も出てきません。紹介されている部分だけを見ても、田中美津の密度の濃い言葉には、男女間の差異のみならず、「人間の標準」に入る者と入らない者の差異、障害を持つ者とそうでない者の差異など、さまざまな「差異」が語られています。「いかなる『差異』をめぐる格闘があったのか」を示すことが論文の課題とされているのに、その複雑さの読解を読者に丸投げするのはちょっとありえないと感じます。

4節

 4節は「ジェンダー」概念について、ジョン・マネーの紹介による「氏か育ちか」的なジェンダー概念の捉え方から、ジュディス・バトラーの紹介による「セックスもジェンダーである」的なジェンダー概念の捉え方への移行がごく短く解説されています。内容的にはジェンダー概念の深化によって「差異か平等か」という問いの前提自体が問い直されたということが言いたいのかなと好意的に読むことはできますが、やはりまた「日本のフェミニズムジェンダー理論」はどこいったの?という気持ちになります。この節でこそ2節でさらっと触れられていた江原さんや上野さんの議論が重点的に紹介・検討されなければならないのではないでしょうか。

5節

 5節は岡真理のアリス・ウォーカー批判が批判的に紹介されています。「ポジショナリティ」をめぐる議論ですね。これもフェミニズムを勉強していればどこかで目にする話でしょう。さて気になるのはやはりこの議論の紹介がどのような意味で「日本におけるフェミニズムジェンダー理論における『差異』をめぐる格闘」の読解になっているのかということなのですが、それを論じた部分がありません。5節にも「差異」という言葉は一度も出てきません。ポジショナリティをめぐる議論にも、第一世界/第三世界、人種的マジョリティ/マイノリティなどさまざまな「差異」が登場するわけですが、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論」がそれらの差異とどう格闘した(と著者が理解しているの)かは語られないのです。

6節

 さて6節がトランスイシューについて取り上げられている節です。トランスイシューに対するおかしな記述については後で指摘するとして、論文の構成という点から言ってこの節は特に異様に見えます。何が異様かというと、2~5節はまがりなりにも「フェミニズムジェンダー理論」の著作の紹介がおこなわれていたのに対し、この節でおこなわれているのは著者自身による時代診断なのです。いわく、「差異と平等」言説はすでにフェミニズム批判の役割を果たしていない、「多様性」のロジックによって女性の公的領域への進出を是とするフェミニズムが受け入れ可能となった、身体的な差異から解放された、その逆接として共同親権をめぐる問題なども起こっている、等々。

 こうした診断の多くについて私はよく意味がわからないという印象を持ちますが、診断への賛否とは別にそもそも著者自身の時代診断を語ることは、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」を考察するのとはあきらかに別のことですから、読者としてはこの節が論文の目的に照らして何をしているのかが理解できません。かろうじてトランスイシューを論じる段でバトラーと清水晶子の議論が出てきますが、あくまでトランスイシューにおける著者の批判相手として登場するだけであって、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論」がどんな格闘をしている(と著者が言いたい)のかはそこからはわかりません。

7節

 こうして、2~6節はどれも1節で告知されていた課題を十分に遂行できていないように私には見えます。各節は時代順に並んでいるように見えるものの、その内容に構成上の統一性は感じられず、必要と思われる解説もありません。結果、どんな「格闘」があったと著者が言いたいのか、私はうまく読み解くことができません。

 せめてまとめの7節を読めばヒントが得られるかと思って読むと、さらに驚きます。7節の冒頭には、「以上、フェミニズムが何を課題とし、「差異」を扱ってきたのか、ジェンダー概念について着目しながら論じてきた」と書かれているのです。「日本の」はついに消えてしまいました。2節3節のジェンダー概念の登場以前の時代についてはどう「ジェンダー概念に着目」されていたというのでしょうか。まとめ方があきらかに不適切で、1節で告知された課題との整合性がとれていません。

 さらに次の文は、「近代社会の黎明期から完成期まで、フェミニズムは「性的差異と平等」をめぐって格闘してきた」と続きます。「日本の」はどこいったという話は置くとしても、紹介してきたフェミニズムの議論を著者は「性的差異と平等」をめぐる格闘としてのみ捉えているのでしょうか。田中美津の議論にせよ岡真理の議論にせよ、他の多様な差異が絡むからこそ論じるべき問題があったのではないのでしょうか。さすがに「差異」ということで「性的差異」のみが意味されていることはないと思うので、ここはきちんと校正がされていないのでしょう。こうして最後まで「?」が消えることなく論文は終わります。

小括

 以上見てきたように、この論文には構成上問題と感じられる点があり、しかもそれがチェック・修正された形跡もあまり見られません。論文固有のfindingsを探して読むには「差異との格闘」なるものについての解説が足りず、フェミニズムの議論の概説的な紹介として読むには各節の内容に統一性が足りません。結果、何が主張されているのか読み解くことが非常に困難なものになっていると感じます。

 私は、こうした不備の多くは通常の査読プロセスを経れば修正されていたはずのものと思います。公募特集ということで甘くなる部分を考慮に入れたとしても、編者のチェックが十分ではなかったのではないでしょうか。だとしたら残念なことです。

 とはいえ、このこと自体はさほど大きな問題であるとは私は思いません。査読というのは完璧なことを期待するシステムではないですし、公募特集であればなおさらです。読者である研究者があまりよくないと思う論文は後続の研究において参照しなければいいだけで、学問というのはそういうものです。

 私が問題だと思うのははむしろ、トランスイシューに関して問題あると思われる6節の記述が、このエントリで述べてきたような全体の構成のまずさに紛れて修正を免れてしまったのではないかと思われる点です。なので記事をあらためてその点について述べます。

*1:日本社会学会の学会誌で、社会学業界内では「評論」と呼ばれます。日本国内の社会学系学術誌ではもっとも地位が高く、キャリア初期の研究者にとっては「評論」に論文が掲載されることは業績におけるアピールポイントにもなるような雑誌です。

*2:公募特集というのは通常の投稿論文とは別に、編集委員が設定したテーマについて会員から寄稿を募る企画です。査読プロセスは投稿論文より緩くなりますが(要旨による選抜で採択されると掲載前提で話が進む)、挑戦的なテーマを扱ったり当該テーマをめぐる研究の到達点と課題を提示したりするのには適しています。

*3:たとえばこちらこちら

千田有紀「LGBT法案をめぐる攻防が炙り出した『ねじれ』」についての補足

 この記事はこのツイートについての補足説明です。

 言及対象となっているのは『論座』に掲載された千田有紀さんの「LGBT法案をめぐる攻防が炙り出した『ねじれ』」という記事です。

 千田さんの記事は全体的に

  • 「現状認識」+「現状についての両論併記」

とう形で記事が書かれていて、その「現状認識」の部分がネットで仕入れた排除言説になっているように見えます。だから「両論併記」の部分にはトランスの権利を部分的に擁護するかのようなことも書かれているけど(そして本人はおそらく本気でそのつもりなのだけど)現状認識がおかしいので全体としてトランス排除言説をエンカレッジする文章になっています。

 以下ツイートした二点についてだけ説明します。


(1)「トランスセクシュアル性同一性障害」と「トランスジェンダー」の対比について

 記事中では

という認識が提示され、そこから一方で

という、排除言説の中でよく用いられる紋切り型の表現が、他方で

  • 「私たちの社会が……性別2分法を前提として、公正や安全をつくりあげてきたかを、ぎゃくにあぶり出す結果になっている」

と、社会のシス中心主義を問い直しトランスの権利を擁護するような表現が出てきます。

だから両論併記っぽく見えるわけですが、実際にはP1の認識に問題があります。歴史的には「トランスジェンダー」というカテゴリーがアンブレラタームとして使用されるようになったのは、病理としてのスティグマが付与された「トランスセクシュアル」カテゴリーへの抵抗からでした。

【文献紹介】タリア・ベッチャー「トランス初級講座」第2節「トランス/トランスジェンダー/トランス* 用語法」 – Trans Inclusive Feminism

【文献紹介】スーザン・ストライカー「「トランスジェンダー」の旅路」 – Trans Inclusive Feminism

性同一性障害」についても基本的には同様で、この病理カテゴリーはすでになくなることが決まっています。

 したがって、「トランスセクシュアル性同一性障害」と「トランスジェンダー」は、一方が病理カテゴリーであり、他方がアイデンティティにもとづくカテゴリーである点で質を異にしており、単純に一方が他方に包含される関係にはありません。

 記事中では「性同一性障害」について、「性別違和」「性別不合」に「置き換わりつつある」と述べられていますが、そこに脱病理化という歴史的背景があることはなぜか一切述べられていません。著者が引く学術会議の提言も、「医学的モデルから人権モデルへ」というその背景のもとに書かれているのに、その背景の説明がありません。

 このような歴史的背景の捨象はトランス排除言説によく見られるものです。そこではトランス差別への抵抗の歴史という観点からではなく、「私たち」というマジョリティの主観から、「トランスセクシュアル性同一性障害」のことは「想定内」で「トランスジェンダー」のことは「想定外」であるという区別がなされます。その上で、「トランスセクシュアル性同一性障害の人は病気だから認めてもよいけど異性装も含むトランスジェンダーはちょっと・・・」という、病理カテゴリーのもとでトランスジェンダーを異化・他者化しつつ(自分たちとは異質な特別な存在として遠ざけながら「認める」立場に立ちつつ)、異性装への偏見が強化されるのです。

 当然ながら千田さんは当然そこまでは書いていませんが、「私たちが○○と聞いて頭に浮かぶのは・・・」という「私たち」の設定の仕方はそうした排除言説とまったく同型です。おそらくは、トランスにかかわるカテゴリーについての知識の入手先が偏っているために、両論併記っぽくしても前提がトランス排除に偏ってしまっているのです。


(2)ジェンダーアイデンティティを尊重することの帰結について

 もう片方も同様で、まず

  • (P2)「男女の二分法の基準が「身体」から「アイデンティティ」へと移行すれば、「女性用のあらゆるスペース」を「性別適合手術を受けていないひとやパス度の低い人」が利用することはなんの問題もなくなる

という認識が尾崎氏のツイートの引用から示され、一方でそれに対して

  • 国際的な基準であり、的を射ている

と肯定的な評価がされ、他方で

  • 「女性用のあらゆるスペース」を開放することはできないと主張する女性たちの意見に、即座に「差別」というラベルを貼ることの是非は、議論されるべき事柄だ

と女性の安心や安全という観点から限定をかけるような評価がされます。

 だから両論併記っぽく見えるわけですが、実際にはP2の認識に問題があります。

まず法的な性別変更手続という点から言えば、尾崎氏のツイートにある「手術要件の撤廃」と、記事中に書かれている「医療や司法を経ないジェンダーアイデンティティの尊重」というのは独立の話です。手術が必要なくなっても医師の診断や実生活経験が要求される国もあります。どのような制度がよいかという議論はすればよいと思いますが、ここではそれなしに認識が「より極端に見えるほうへ」滑っていっていることがわかります。

 また、法的な性別変更手続をどうするかという話と、性別スペースをどう運用するかというのも独立の話です。法的な性別がどうあれ、性別スペースは差別が生じないよう原則性自認を尊重する、逆にスペースの特性に照らして必要であれば性自認とは異なった区別を例外的に許容する、といった制度設計もありえます。英の平等法はそんな感じですね。

【文献紹介】ヴィック・ヴァレンタイン「自己宣告は英国の制度を国際的に見て最良の仕組みにあわせるものだ」 – Trans Inclusive Feminism

 いずれにせよ、法的な性別変更の話から「女性用のあらゆるスペースが開放される」という結論を導く議論はひどく短絡的で、「国際的な基準」といいながらかえって具体的な制度の話からかけ離れてしまっているものです。

 そして、このように短絡的な議論を設定しておいて、それによって「女性スペースの安全が脅かされている」と不安を煽るやりかたもまたトランス排除言説によく見られるものです。特に記事中では現実的な制度運用の話をしている弁護士さんの発言が「トランスフォビックだ」と言われていますが、このように自分で設定した短絡的な議論から現実の法や制度についての話を「フォビアだ」と言ってみせるのもトランス排除言説の紋切り型そのものです。

  このように、ここでも両論併記の前提となっている認識に大きな偏りがあります。そもそも法や制度の「国際的な基準」の話をするのに尾崎氏の一ツイートを根拠として持ってくるの、意味わからないですよね。論点と直接関係ないツイートまだがただ尾崎氏の人物紹介のためだけに引用されている点も、「晒し」がしたかったのかなと勘ぐられても仕方ないでしょう。

 他にも「レズビアンがトランス女性を恋愛対象としないとトランスフォビアだと言われる」というような粗雑な認識がいくつかありますが、だいたいどれも全体的に上で説明したような仕組になっています。

 したがって、Pの含む偏った認識に共感する人は「千田さんが自分たちを擁護してくれた」と思えるし、共感しない人は「一見トランス擁護みたいなことも書いてるけど排除言説と同じだよな」と見えるし、そもそもPについてよく知らない人には両論併記に見えるでしょうという話。

 

『現代思想』の千田論考について

はじめに

 『現代思想 フェミニズムの現在』に収録されている千田さんの論考「『女』の境界線を引き直す―『ターフ』をめぐる対立を越えて」を読みました。いろいろと問題を感じましたが、それ以前に非常にわかりにくかったので、その点について簡単にまとめておきます。

 千田さんの論考についてはすでにトランス当事者の方が千田さんの論考に対しておかしいと感じる点を丁寧にまとめているブログがあるので是非読むことをおすすめします。

snartasa.hatenablog.com

  千田さんご自身はこのブログを「誤読だ」と言っています。

note.com

 けれど、以下述べていくように、私は千田さんの論考は構成も内容も決して明確ではなく「正読」が何であるのかを掴むのが大変に難しいと思うので、特に当事者の方がトランスフォビックに感じられる点を強く受け取めるのはある意味当然のことではないかと思っています。

主題設定について

 タイトルにもあるとおり、この論考の主題は「『ターフ』をめぐる対立」だと言われています。けれど私はまずそれがどんな対立なのか、タイトルを見てすぐにイメージできませんでした。

 読んでいくと、p. 247に「誰がトランス排除的なフェミニストであるのかをめぐって争いが起きている」と書かれていて、どうやらこれが「『ターフ』をめぐる対立」と言われるもののようだとわかります。

 しかし、この1年くらいTwitterで多少なりともこの問題をウォッチしてきた者として言えば、「誰がターフなのか」という争いはあまり(というかほとんど)見たことがありません。経緯の説明では我々が出した声明も言及されていますが、我々の声明は「トランスジェンダーに対する差別的な見解を憂慮する」ものであって、「誰がターフか」という問いとは無関係です。

  もう少し読み進めると、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」について混乱や対立があるという話が出てきます。これはそのとおりで、それを「解きほぐして考える必要がある」という主張にも全面的に同意します。けれどこれも「誰がターフか」という対立ではありません。

  結局、「誰がターフか」という(あまり見かけない)問いがなぜ考察の主題として設定されているのか、冒頭部分を読んでもよくわかりません。

1節「『生物学的女性』vs. 『セルフID』?」について

 よくわからないまま1節に進みます。タイトルだけ見ると、この節では「対立」の双方の主張が紹介されるのかなと思うのですが、中身はそうなってはいません。

  最初にバンクーバーの非トランス女性限定DVシェルターが攻撃されたという話が紹介されますが、これが何のための紹介なのかは説明がなく不明です。

 続いてJKローリングがマヤ・フォーステーターを擁護して「ターフ」と非難されたという話が紹介されます。「生物学的性別は2つしかない」「性自認で性別が決まるという"セルフID"で性別変更を可能にすると女性の権利が守られなくなる」というマヤの言葉が報道記事から引用されていて、タイトルの「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」はここから取られているのだとわかります。

 ではこの「対立」の中身が紹介されるのかと思うとそうではなく、「プライベートな場所の性別分離のあり方が問われている」という論点が引き出されて話は日本の女湯へと移っていきます。

  では「プライベートな場所の性別分離のあり方」をめぐる日本での議論が紹介されるのかと思うとそうでもなく、そこで書かれているのは千田さん自身の主張です。しかもそこでおこなわれているのは日本のトランスアクティビストの発言に異論を唱えることです。

 ひとつは「今日明日にでもペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージを喚起するのはあきらかにトランスジェンダーの排除を意図したデマです」という三橋順子さんの発言に対する、「将来の不安がかき立てられているという側面があるのではないか」という主張。

 もうひとつは「ターフがペニスのことばかり語っているのは異常な光景だ」という畑野とまとさんの発言に対する、「彼女たちの意味世界に寄り添えばそれは十分理解可能だ」という主張。

 このふたつの主張はどちらも問題含みだと思うのですが*1、それよりわからないのは、なぜここで千田さんが突然自分の主張をしているかです。三橋さんにせよ畑野さんにせよトランスフォビックだと思われるフェミニストの発言のおかしさを指摘しているわけですから、まずはフェミニストがどんなことを言っているのかを紹介しないと、三橋さんや畑野さんの発言がそれらに対するどういう批判なのか読者はわからないでしょう。その状態で三橋さんや畑野さんの発言に対する自分の異論を述べるのは、「対立」について(それがどういうものだと著者が考えているかを読者に伝えないまま)単に「ターフ」の側を擁護しているようなバランスの悪さを感じます。

  こうして結局「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立が何なのかは読者にわからないまま1節は終わります*2

 「対立」ということで、ここまで「誰がターフなのか」という対立、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立の三つが出てきていますが、それぞれがどういう対立で、相互にどのような関係にあり、千田さんがどれについてどう考えたいのか、説明がありません。

 2節「ジェンダー論の第三段階」について

  2節では「ジェンダー論の三段階」なるものが提示されます。

 第一段階は「ジェンダー」という概念の登場で、「ジェンダーアイデンティティ」や「ジェンダー・ロール」が社会的に作られることが主張されたそうです。ジョン・マネーやロバート・ストーラーの名前が挙げられています。

 第二段階はポスト構造主義以降で、「言語」に着目することで「身体」も社会的に作られることが主張されたそうです。ジュディス・バトラーの名前が挙げられています。

 そして第三段階は現在入りつつある段階で、「身体もアイデンティティもすべては『フィクション』であるとされるのだったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張」だそうです。

 私も20年近くジェンダー論を勉強していますが、この三段階説は寡聞にして聞いたことがありません。私が不勉強なことを差し引いても、決して一般的に流通している説でないことは確かです。「私なりに大雑把に分ければ」と書かれているので、千田さんオリジナルなのかもしれません。

 さて問題は、オリジナルなことではなくて、この三段階説がよくわからないことです。私には、そもそも「段階」として成立していないように思えます。

 マネーのような性科学者を「ジェンダー論」と呼ぶことには違和感があるし、バトラーの読解にも異論はありますが、それはおいておきます。大雑把に「『性別は社会的に構築されている』という主張を学者が推し進めてきた」というくらいに受け取っておきましょう。つまり、第一段階は「アイデンティティやロールが社会的に作られる」という事実的主張、第二段階は「身体も社会的に作られる」という事実的主張だと受け取っておきましょう。

 ところが第三段階だと言われているのは「再構築は自由におこなわれるべきだ」という規範的主張です。これがどのような意味で「ジェンダー論の三段階目」なのか、二段階目までとの繋がりが私には理解ができません。

 具体例に挙げられているのはトランスの話に加えて「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説」で、「身体は自由に作り上げてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している」のだそうです。

 ここを読むと、「再構築は自由におこなわれるべきだ」というのはジェンダー論者の主張じゃなくて、(「第二段階」の主張を受けて?)一般の人びとが持つようになってきた考え方を指しているように読めます。だとするならば、なおさらそれは「ジェンダー論の第三段階」ではないはずです。「人びとがそう考えるようになっている」ということと「ジェンダー論がそう主張している」ということは別のことですから。

  このように、この三段階モデルは賛同するかどうか以前に「段階」として理解するのが私には難しいのですが、このモデルを出すことで千田さんが何をしようとしているのかはそれに輪を掛けて理解するのが難しく感じます。

 2節の後半部分で語られているのは、スポーツとトイレについて、二元的な性別とは異なった仕方で分割線を引き直すことを考えよう、という主張です。この主張については私は方向性としてはほとんど同意します。けれど、この話が「三段階説」とどう関係しているのかがよくわかりません。「三段階目」に達すると、スポーツやトイレについてそうした見方が可能になる、ということなのでしょうか。けれど千田さん自身あまり「三段階目」の主張にコミットしているような書き方はされていないので、そう読むのも不自然に感じます。

 また、スポーツやトイレについて二元的な分割の維持を強固に主張しているのはどちらかといえばトランス差別的な発言をおこなっている人たちです。「トイレは性器で分けるべきだ」「女性アスリートの活躍の場が奪われる」という発言、たくさんありましたよね。千田さんはそうした発言に対して批判的だと理解してよいのでしょうか。「分割線の引き直し」を主張するのに、そうした夥しいトランスフォビックな発言について一言も触れていないのはとても奇妙に感じます。

 こうして、結論としては同意できそうな主張が、根拠がわからないまま主張され、またそれがこれまでに出てきたどんな「対立」に志向したものなのかも説明されないまま2節は終わります。風呂の話は「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、スポーツの話はなんとなく「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立に志向しているように読めますが、それらの対立についてこれまで説明されていないので、千田さんの主張がその対立の中にどう位置づくのか読者にはよくわからないままです。

3節「ターフ探しがもたらすもの」について

 最後の3節はもうまとめのような内容です。「ターフ」という言葉を使って攻撃する人たちは相手の「差別意識」を問題にしていて、それは啓蒙主義的でうまくいかないし、うまくいかないから苛立ちが募って暴力的になるのでよくないよ、ということが述べられています。「差別意識」が問題になっているのかという内容にも異論がありますが、それ以前に1節2節の議論がよくわからないので、この結論めいた主張が前の議論からどう導かれるのかという論理が私には読み取れませんでした。

 おわりに

 結局、この論考ではどのような「対立」をどのように解きほぐすことが試みられたのか、私にはよくわかりません(そもそも「対立」のちゃんとした紹介すらないのです)。

 ものすごく好意的に読むとすれば、次のような筋を読めなくもないかもしれません

  • トランス差別に反対する人たちと、その人たちに「ターフ」と呼ばれる人たちが対立しています。
  • 「ターフ」と呼ばれる人たちの主張にも一理あるし、彼女らもトランスへの差別意識を持っているわけではありません。
  • 時代はジェンダー論第三段階で、社会は性別二元的な仕方ではなく分割されるようになってきています。その方向で多様性を尊重しましょう。
  • そのためには「ターフ」という対立を生む言葉で人を攻撃すべきでありません。

 けれど、こうして好意的にまとめて見るとよりはっきりするのは、「ターフ」と呼ばれる人たちがどんな発言をしていて、それらがどうトランス差別的であると言われているかについての考察が、この論考にはまったく存在していないということです。

 これは、「誰がターフなのか」という「対立」が主題として設定されたことにかかわる問題だと私は思います。トイレや風呂の問題にせよスポーツの問題にせよ、トランス女性を排除する言説があって、「ターフ」という言葉はそれに対する反発として使われているものです。2節後半で提示されているトイレやスポーツに関する千田さんの主張も、そうした排除の言説を批判し、それを乗り越えるためのものとして提示されていたら、もっと違った受けとめ方のできるものになっていたかもしれません。

 けれど、この論考はトランス排除の言説から出発するのではなく、それへの反発である「ターフ」という言葉の使用を出発点にして「対立」を捉えています。その結果、トランス差別についての考察が抜け、実際にどんな「対立」があるのかは不明瞭にされたまま、「ターフ」という言葉の使用だけが批判されるというアンバランスな議論になってしまっているように思います。出発点がおかしいのです。

 私は、「ターフ」という言葉が中傷の言葉として使われることがある、ということを否定しようとは思いません。私自身はその曖昧な言葉を使おうとは思わないので、なんなら「その言葉は使わないほうがいい」という点で千田さんと同じ見解を持ってさえいるかもしれません。

 けれど、その言葉が使われてきた背景には「フェミニスト」による苛烈なトランス差別的言動があります。この1年の日本語圏のTwitterに限ってさえそうです。「トランス差別的な言動をしている」と思われるから「ターフ」と呼ばれるわけで、その是非は別にして、元々の言動がどんなものでなぜ批判されているかについて何も具体的に触れないまま、「『ターフ』という言葉をめぐる対立」が何なのかを示すこと、ましてやそれを解きほぐすことなど、できるはずがないと私は思います。

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*1:たとえば「ペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージ喚起が排除を意図したデマ」なのは、現在の話か未来の話かというよりも、性器はトランス当事者にとってこそ最もデリケートな場所であるのに「性器を他人に見せつけるように女湯に入りたがってる人がいる」というイメージで語ることにトランス女性への偏見があるからでしょう。そうした趣旨のことを多くの当事者が語っていたはずです。また「ペニスを恐れるのは理解可能だ」という理由に刑法の旧強姦罪規定を持ち出しているのもよくわかりません。「ペニスの膣への挿入」だけを特別視する刑法の性暴力観をフェミニストはずっと批判してきたのではなかったのでしょうか。この点はゆなさんが適切に指摘しているとおりだと私は思います。関連して、「男体」への意味づけの問題は私も1年前にブログに書いています。

*2:「セルフID」について読者に与えられる情報は「性自認で性別が決まる」という言葉だけなのですが、これだけ言われて問題を理解できる読者はいないと思います。法的な性別に関して言えば日本でも要件が厳しいだけで性自認にあわせて変更ができるのですが、日本も「セルフIDだ」とは千田さんは言わないでしょう。「セルフID」と言われていることについて考えるには、法的な性別の変更の要件(SRSを要求するのか、医師の診断を要求するのか、RLEを要求するのか等)が他国でどう変わってきていて、それに対して反発する人たちがどういう意味で「セルフID」という言葉を使っているのかを知る必要がありますが、「性自認で性別が決まる」とだけ言われてそうしたことがわかるはずがありません

「女性専用スペース」とトランスフォビア

はじめに

 この長い記事の目的は、現在ツイッター上で生じているトランスフォビアの問題について、若干の問題の整理を試みることで、トランスフォビックな語りの停止に多少なりとも貢献を試みることです。

 ここで「問題の整理」ということで私が意味しているのは、「トランスフォビックな語り方」がどのような思考から出てきているのか考え、またその思考を反省することは、フェミニズムの関心とも重なるとこがあるはずだという見方を呈示することです。

 この記事には二つの内容があります。

 ひとつはタリア・メイ・ベッチャーによる「トランス初級講座」という論文の紹介です。この論文の最後の「ジェンダー分離」という節は、ちょうどトイレの話から始まっていたので、資料としての意味もこめて雑な訳も載せておきました。

 もうひとつは、ベッチャーの論文の内容に絡めて、もう少し私自身の専門である社会学のほうに引き寄せつつ、トランスの問題とフェミニズムの問題の重なりについて考えるパートです。

 両方あわせるとだいぶ長くなりますが、もちろん一気に読まなくても構いません。どうかゆっくりとおつきあいいただければ幸いです。

「トランス初級講座」紹介

第1節~第6節

 まず「トランス初級講座」という文章の紹介をします。著者のタリア・メイ・ベッチャーはカリフォルニア州立大学哲学科教授で、昨年はBuzfeedの記事「私たちの生活にヒントをくれる女性哲学者たち」37人の中にも名前が挙がっていました。この文章が寄稿されているのは『セックスの哲学(第7版)』という本です。版を重ねていることから、それなりの定評があることがわかります。

 哲学の教科書なので、ベッチャーの文章も「何が哲学的に興味深いか」といった問いのもとに書かれていますが、ベッチャー自身のトランス女性としての経験から、哲学的問いと、当事者にとっての(そして私たちの社会にとっての)重要な問題とが重ねられていると考えられるでしょう。

 「トランス初級講座」ではまず1節でセクシュアリティに関する基礎用語が解説されます。「性的指向」「ジェンダー表現」「ジェンダーアイデンティティ」が取り上げられています。この中でいま重要なのは「ジェンダーアイデンティティ」ですが、それが何かという問題は後で触れられています。

 2節はトランスにかかわる述語の解説で、「トランスセクシュアル」「トランスヴェスタイト」「クロスドレッサー」「トランスジェンダー」といった言葉の意味と簡単な歴史が紹介されています。

 こうした言葉の意味とその背景を理解しておくことはむろん大事なことですが、ここで解説することはこの文章の目的から外れてしまうので、「わからない」という方はぜひ調べてみてほしいと思います。

 3節はこの文章にとって重要な部分です。「誤った性別割り当て(misgendering)」と呼ばれるトランスフォビアが取り上げられています。「誤った性別割り当て」とは、トランスの人々に対して、その人自身のジェンダーアイデンティティにあわない取扱いをすることです。例えばトランス女性を「彼」と呼んだり、「女性として生きる男性」と呼んだりすること(もちろんその逆も)などがそれにあたります。

 ベッチャーが紹介しているところによればこの「誤った性別割り当て」にはさまざまな害がともないます。こうしたふるまいは、トランスの人の自尊心を掘り崩し、疲労やストレスや怒りや恥といった心理的負担を与え、また自分が何者であるかという認識を確立することを妨げ、また制度的にもジェンダーアイデンティティと異なった扱いをされるという政治的抑圧の対象ともなってしまうと言われています。

 こうした害がともなう差別的なふるまいであるという点で、「誤った性別割り当て」には大きな問題があるということをまず強く確認しておきましょう。トランスの人々は、自身のジェンダーアイデンティティにあうよう(つまりトランス女性は女性として、トランス男性は男性として)扱われるべきです。

 その上で、ここで次のような疑問を持つ人もいるかもしれません。「トランス女性/男性は女性/男性として扱われるべだ」というときの「女性/男性」とはいったいどういう意味なのか、と。それは結局「生物学的な」ものではないのか、と。

 ベッチャーが考えようとしているのは、まさにこの「哲学的」問いです。ベッチャーは4節で、この問いに対して性別にかかわる概念の分析(性別にかかわる用語を人々がどう用いているかという言語的実践の分析)によってその問いについて考えることを勧めます。

 私たちは「女性」「男性」といった言葉を、必ずしも「生物学的な」特徴のみを基準に用いているわけではありません。「女性」「男性」という言葉は、生物学的な性別の概念と強く結びついていることは確かではあるものの、さまざまな文化的意味を含んで、文脈によって異なった意味で使われる言葉でもあります。

 またこの文章の後半でも考えるように、実のところ私たちの日常生活で常に人の性器(まして染色体)が問題になるわけではないことを考えれば、人を「女性/男性」に分類することがどんな実践なのかということは、「生物学的」なものに還元されるわけではなく、個別の文脈に照らして考えることができる問題だということになるでしょう。

 それどころか、「生物学的な」身体(たとえば外性器)がどのようなものであるかということもまた、特定の文脈における文化的な(つまり私たちの言語的実践における)意味づけの対象であることが後の7節では論じられています。このことも、この文章の後半で取り上げましょう。

 ベッチャー自身はここでは、トランス女性/男性を「何かを欠いた」女性/男性としてではなく、端的な女性/男性として扱う言語的実践が少なくとも特定のサブカルチャーの中にはあり、しかもそれは現在メインストリームにも広がりはじめているのだと主張しています。

 5節では「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問題が取り上げられています。一般的にはトランスは、「性別の自己認識」という意味でのジェンダーアイデンティティと身体との不一致と説明されることが多いですが、ジェンダーアイデンティティをこうした意味だけで考えると、多くのトランスの人がもつ自身の身体への不満をうまく捉えられないとベッチャーは言います。

 というのも、トランスの人は自分が何者であるのかを必ずしも最初からはっきり知っているわけではなくて、むしろそれを発見していく過程があるというからです。その過程には多くの場合「性別の自己認識」の変更も含まれています。しかし、たとえば自己認識を男性から女性に変更する過程があるとき、身体に対する不満はその自己認識の変更以前から持たれているものです。したがって「自己認識と身体の不一致」という表現ではその状況は捉えられなくなってしまいます。

 ベッチャーはここでジェンダーアイデンティティに関するいくつかの立場を紹介した後、「身体に対する感情投入」に注目する視点を魅力的なものとして紹介しています。私たちの身体経験には、快や不快といった感情の経験も含まれます。私たちが自分の身体に肯定的または否定的感情を持つようになるのはどのようにしてか、またその感情が、女性/男性として育てられたという環境に反する場合がある(つまりトランスの人の場合)のはどのようにしてかを考えようということです。

 ベッチャーがこうした立場を魅力的だと考えるのは、身体に対する感情的な経験には、身体に対する文化的・社会的な解釈が大きくかかわっていると考えているからです。このことも7節の最後で少し述べられています。

 こうして、「女性/男性とは何か」という問いについて、性別を分類する私たちの言語的実践に目を向けるという仕方で考えることは、「身体を解釈する言語的実践」とその実践のもとでの「身体の感情的経験」について考えることにもなることで、「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問いにも繋がっているというわけです。
 その上で、以上のような文章の最後におかれているのが、「ジェンダー分離」と題された7節です。以下に雑な訳を掲載しておきます(6節ではジェンダーアイデンティティ性的指向の区別と複雑な関係が論じられているのですが、この文章の目的とは関連が薄いので紹介は割愛します)。

 7節「ジェンダー分離」

 「トランス初級講座」*1

タリア・メイ・ベッチャー

7節 ジェンダー分離

近年、トランス女性が女性トイレを、トランス男性が男性トイレを使用することを防ぐために、性別で分かれているトイレを出生証明書の性別で使用するよう定める法律がいくつかの州で可決されたことで、トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあった公衆トイレを使用することをめぐる論争が活発になってきている。トランスの政治的観点から言えば、こうした動きは「誤った性別割り当て」の制度化された形態だと見ることができる。つまり、トランス女性に男性トイレを使用するよう求めることで、トランス女性は制度的に男性だとみなされることになる。このことを合理的に説明する根拠はきわめて薄弱だ。たとえば、トイレの中でトランス女性が非トランス女性に対して性的暴行をおこなうという疑いについて考えてみよう。こうした主張は容易に反証可能だ。トランス女性は通常他の女性に嫌がらせをするためにではなく、用を足すためにトイレを利用するのだから。実際こうした主張は、トランス女性は本当は(女性に危害を加えたいと思う)男性なのだという考えにもとづいている。もしトランス女性が女性として認められているなら、非トランス女性を保護するための論拠は同じようにトランス女性にも適用されなくてはならないだろう。

 また、トランス女性は男性トイレを、トランス男性は女性トイレを使うよう主張する立場は、そうした法への賛同者が明らかに意図していない帰結を引き起こす。(非トランス)女性としてパスしているトランス女性を考えてみよう。もし彼女が男性トイレに入ってきたら、男性たちはどう思うだろうか。自分たちのプライバシーを心配してくれれば良い方で、最悪そのトランス女性はハラスメントや暴力にあう危険にさらされるだろう。また、(非トランス)男性としてパスしているトランス男性にについても考えてみよう。もし彼が女性トイレに入ってきたら、女性たちはどう思うだろうか。まさにトランス女性を女性トイレから排除することを動機づけてきたはずのその関心を持ったりしないだろうか。ここで見えなくされているのは、一部のトランスとジェンダー不一致の人々*2がトイレを利用するときに直面するリスクである。一方のジェンダーで一貫したパスをしていない(文脈によってパスするかどうかが変わる)トランスないしジェンダー不一致の人々は、じろじろ見られたりハラスメントを受けたりする可能性なしにトイレを利用することができない。このことが示すのは、少なくともトイレを性別で分け続けている社会においては、ジェンダーニュートラルなトイレが一刻も早く利用可能になるべきだということである。

 こうしてみると、トランスの人々が性別で分かれたトイレを使うことに関する論争はほとんど哲学的関心を惹くものではないように見える。トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあったトイレを使うことに反対する議論はとても貧弱に見えるからだ。しかし、性別で分かれたトイレの話は始まりに過ぎない。他の制度的なジェンダー分離(たとえば更衣室、DVシェルターやホームレスシェルター、刑務所、検身*3など)、特にその中で人が見たり見られたり触ったり触られたりすることがある制度を考えてみると、興味深い哲学的問いと洞察が浮かび上がってくる。

 具体的な例を考えよう。私は以前、ロサンゼルス警察署がトランスジェンダー個人にかかわる際の手続きと指針を策定して施行しようとするワーキンググループに参加していた。私たちは、検身の際に自分を検査する警察官の性別をトランスの人々自身が決められるよう求めていた。トランスの人々の身体はしばしば複雑で、自身の身体をさまざまな仕方で「再コード化*4して理解することもあるので、検査する警察官の性別をどうするかはトランス個人にまかせるのが一番よいというのが私たちの提案の根拠だった。

 ロサンゼルス警察署が示した懸念には、ペニスがある身体の検身をすることになる女性警察官から訴訟が起こるかもしれないというものがあった。訴訟に関する潜在的不安は道徳的関心であった。当初そうした懸念は、女性警察官がトランス女性にレイプされるというありそうもない恐れから表明されていた。この考えはもちろん、(ペニスをもった)トランス女性は「本当は男」であって女性に性的暴力を働く傾向があるかもしれないというものだ。しかしながらこれはおかしな話で、ある人がペニスをもつか否かという分割線は、個人に帰属される心理的傾向とはほとんど関係がないだろう。手術をしてもはやペニスを持っていない個人にもレイプをする傾向性は帰属できる。そうした個人は、たとえペニスがなくても、なお性的暴力をおこなう能力をもっている。身体的能力(たとえば体力)という点でいえば何も変わっていないのである。

 次に問題となったのは、プライバシーと品位にかかわる懸念であった。こうした懸念は、性別で分れた刑務所について私達が議論する際にもあらわれた。それは主として、トランス女性が(非トランス)女性のプライバシーを侵害し、さらにはわいせつな行為をするかもしれないというものだった。その結果として、検身に関する議論においても、女性警察官がペニスに触れることの害(すなわちわいせつに対する懸念)が考えられるようになった。

 このことは、身体部位が――とりわけプライバシーと品位にかかわる道徳的境界に関して――性(sex)によって異なる仕方で社会的に解釈される仕方〔たとえば「男性のペニス」が、暴力をおこなうものとして、あるいは見たり触ったりすることがわいせつであるものとして解釈されているということ〕を示している。それは、「裸であること」は社会的に構成されるという問題を想起させる。裸であることが道徳的負荷のある〔恥ずかしいとかわいせつだとか感じたりする〕現象なのは、ほとんどの社会的文脈において着衣が標準化されているという前提があるからであり、その限りにおいてそれはまごうことなき文化的現象である。こうした関心はまた、トランスの人々が自身の身体をさまざまに解釈することでそうした道徳的境界に異議を唱える仕方を際立たせてくれる。

 もしこのことが正しければ、ジェンダー分離において問題となっていることは、実のところきわめて哲学的考察に値することがら――すなわち、性(sex)によって異なる身体部位の、道徳的境界という点から見た社会的解釈――である。これはまったく些末な問題ではない。道徳的解釈は、(少なくとも人間における)男性・女性カテゴリーの区別についての私たちの理解にとても深く入り込んでいるからである。そうした道徳的境界は、トランス男性を本当は女性であると、トランス女性を本当は男性であるとカテゴリー化することを含む言語的実践を支えている。実際それらの道徳的境界は、私たちの公的なジェンダー呈示のみならず、私たちの身体に対する重大な感情投入の感覚――ジェンダー化された公的な尊厳の感覚、傷つきやすさや強さの経験、あるいは暴行や犯罪の経験をも含む感情投入――に対してもその基礎を与えているだろう。言い換えれば、おそらくこの地点〔身体部位の社会的解釈を道徳的境界という点から考えること〕は、ジェンダーアイデンティティを基礎づける何らかの感情投入に対する説明を探し始めるためのよい出発点なのである。

 トランスの問題とフェミニズムの問題

性別の分類:外見とふるまいの規範性

 上に紹介したベッチャーの文章は、どこまでその内容に同意するかは別にして、今回ツイッター上で生じているトランスフォビアについて考えるためのいろいろなヒントが詰まったものであるように思えます。特に、性別を分類する言語的実践や、身体部位に対する社会的解釈に注目することは、「誤った性別割り当て」が今回どのように生じてしまっているのかを理解しやすくさせてくれるのではないかと私は思います。

 ここではベッチャーの文章に絡めながら、そのことについて考えるとともに、そうしたトランスフォビアを回避することは、フェミニズムの課題とも重なるのではないかということを考えたいと思います。

 7節の前半で述べられているのは、「トランス女性を女性トイレに入れないようにする」法の奇妙さでした。それはトランスの人々に対するいわれのない排除であるだけでなく、法への賛同者が意図したのと逆の帰結すらもたらしうる、制度的な「誤った性別割り当て」なのだ、と。

 ツイッター上でも今回、トイレの話は話題になっていました。ベッチャーの文章を読んだ人は、「いや、そこで問題になっていたのはトランスの人のトイレ使用ではなく犯罪目的でトイレに入ろうとする男性のことではなかったか」と思うかもしれません。しかし、そのように言うとき、そこでは「男性」ということで何が意味されているのでしょうか。

 私たちはトイレですら他人の性器を見ることなどあまりありません(女性トイレならなおさらそうでしょう)。そのときある人が「男性である」というのはいったいどのようなことなのでしょう。

 ツイッター上では、この問題は「女装して入ってくる男性がいるのではないか」あるいは「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」そして「そうした人とトランス女性の区別がつかないのではないか」という問いのもとで議論されていたように思います。私はこの議論の仕方に、体系的に「誤った性別割り当て」が含まれているのではないかと思います。

 ここではまず「女装して入ってくる男性がいるのではないか」という疑問について考えましょう。この疑問には、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」という前提があるように思います。しかし、たとえば「(シスであれトランスであれ)男っぽい女性」と「女装した男性」を区別して判断する明確な基準は存在するのでしょうか。

 性別判断についてはベッチャーはあまり語っていないので、ひとつ社会学の文献を紹介します。鶴田幸恵さんの『性同一性障害エスノグラフィ』という本です。


 この本の前半は「他人の性別を見る」という社会現象がどう達成されているかが分析されています。私たちはたとえば街で見かける他人を女性か男性か判断していますが、別に性器を見てそうしているわけではありません。「見た目で判断しているのだ」と言いたくなるかもしれませんが、しかし私たちは「女性の見た目をした人」「男性の見た目をした人」を見ているのではなく、「女性を」「男性を」見ているのではないでしょうか。つまり、「他人の性別を見る」というのは実は、ジェンダー化された(つまり女/男っぽい)無数の外見やふるまいの集積から、「外見以上のものを見る実践」なのです。

 興味深いのは、そうした実践は、「外見か外見以上のものを推測すること」ではなく、まず端的に特定の性別を帰属した後で、それを地としてその上でその人の振る舞いを解釈する仕方でおこなわれているという指摘です。

 たとえばトランス男性が故郷に帰ったときに親戚からは「女性」とみなされて一生懸命「女らしい」ところを指摘されたという話が出てきます。日常的には男性としてパスして生活している人でも、性別移行前を知っている人たちは「女性」だと見て、その判断を地として、ふるまいの「女らしさ」を指摘されるという話です。また、「喫煙所で座ってタバコを吸っていたら男性だと思われた」という著者自身の話も紹介されています。

 そう考えると、ふるまいを解釈する枠組みとなる判断がどのようにおこなわれているかは、その人に対する知識や出会いの文脈に依存するものであり、いつでもどこでも誰と誰のあいだでも通用するような脱文脈的な基準を定めることは難しいということになりそうです。いったん判断した枠組みを一時停止して人の外見やふるまいを深く疑いだしたら、シスかトランスかにかかわらず、違った枠組みを採用する要素をそこに見いだすことは出来てしまうでしょう(実際この本でも、問題なくパスできていながら、自分自身は自分の顔を元の性別判断を地として見てしまうがゆえに、自分が「不完全」に思えてしまうという当事者の話が紹介されています)。

 さて、他人の性別を見るということがこのような実践であるとしたら、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」と考えてしまうことは、想像の中で人の性別をあらかじめ定めて、それを地としてその想像の中の人の外見やふるまいを見ているということなのではないでしょうか。そうだとしたら、その想像は「トランス女性」をあらかじめ「男性」として定めているのであり、その点で「誤った性別割り当て」だということになるでしょう。

 もちろん、基準が明確ではないといっても、外見やふるまいが二元化されている私たちの社会では「あいまいな外見やふるまい」がないわけではないでしょう。しかしそのこと自体はトランスかシスかにかかわらず言えることであり、にもかかわらず、「トランス女性と女装した男性の区別」のみをことさらに懸念することは、「誤った性別割り当て」とともにいわれのない懸念をトランスの人々に向けていることにならないでしょうか。

 実際には、外見やふるまいを詮索されることを恐れているのはまずもってトランスの人々であるはずです。ベッチャーが書いていたように、そのこと自体ハラスメントのリスクにもなってしまうからです。だからこそ、ジェンダーニュートラルなトイレの整備が急務だと言われているのでしょう。

 もちろん、外見やふるまいによる性別判断の文脈相対性を弱めるために、「(シスであれトランスであれ)女性/男性はいつでもどこでも女性/男性にしか見えないように特定の外見やふるまいをしなければならない」と言っていけば、なにがしかの「基準」を定める方向性を考えることもひょっとしたらできるのかもしれません。しかしそれは、フェミニズムがこれまで考えてきたこととは矛盾するでしょう。

 一方でフェミニズムは、「女性らしい」外見やふるまいの規範化(女性とはそういうものであるべきだとされること)にずっと抵抗してきました。ツイッター上で何度も繰り広げられている女性表象をめぐる議論にも、このことと深く関わるものがあるはずです。

 他方、外見やふるまいの規範によって性別判断のありようが狭く限定された社会は、トランスの人々にとっては他人からどう見られるかを強く気にかけなければならず、またその規範から外れればただちにアブノーマルな存在とされてしまう社会でもあるでしょう。

 もしそうなら、この点では、フェミニズムとトランスには共通の事情があり、それゆえ外見やふるまいの規範性の問題について考えることは、両者の問題が重なるところだと考えることができるのではないでしょうか。

 身体の意味づけ

 続いて「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問についてですが、こちらは「身体の意味づけ」という観点から考えたいと思います。

 ベッチャーの文章の後半には、「身体の社会的解釈」の話が出てきます(「解釈」という言葉は個人的にはちょっと強すぎる気がするので、ここでは「身体の意味づけ」という表現を使っておきます)。ベッチャーの警察署の話は、トランス女性のペニスが当初女性警察官に性的暴行を加えるかもしれないものと意味づけられ、次いで女性警察官がわいせつなことをさせられる対象とされる可能性が出てきたというものでした。

 ここには、性器あるいは身体の意味づけという興味深い問題があります。ツイッター上ではしばしば「女体持ち」「男体への恐怖」といった表現で、フェミニズムの主体や性暴力への恐怖が語られることがありますが、ベッチャーの話は「身体性」を語るこうした言葉についても考えるヒントをくれるように思います。

 「男体」という表現について考えてみましょう。2-1で述べたように、日常生活で私たちが他人の身体、ましてや性器を直接見ることは多くありません。にもかかわらず「女体」「男体」という表現で性別が指示されるとき、そこでは身体に対する一定の意味づけがおこなわれているように思います。たとえば恐怖の対象として語られる「男体」は、身体それ自体を指しているよりは、一定の象徴的な――「侵襲の主体」のような――意味づけをされた身体なのではないでしょうか。

 たとえばベッチャーが挙げていた「検身」をめぐるロス警察の当初の懸念(「女性警察官がレイプされるかもしれない」)は、この「侵襲の主体としての男体(ペニス)」という意味づけが「トランス女性のペニス」へと投影されることで生じていたものだと考えることできるでしょう。

 「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問もまた、同様の投影を含んでいるように思います。実際には、男性に見える人が女性専用スペースに入ることで生じうる混乱を、多くのトランスの人々は(むしろトランスの人々こそ)望んでいないでしょう。にもかかわらず、「自己申告だけで女性専用スペースに入るトランス女性」と「ウソの自己申告をして入ってくる男性」との区別をことさらに心配することは、やはり想像の中でトランス女性の身体に「侵襲の主体としての男性身体」という意味づけを投影することから出てきているのではないかと思えるからです。だとしたらここにはやはり、「誤った性別割り当て」の問題があるように思います。

 念のため述べておけば、私は「男体への恐怖」の語りが常に悪いとまで思っているわけではありません。女性のほうが性暴力のリスクに晒され実際に被害にあっている差別的状況のもとでは、性暴力への恐れが「男性の」身体へと向かうことはむしろよくわかる気がしています。

 ただ、男性身体(とりわけペニス)へのそうした意味づけは、それをいつでもどこでもあてはまるものとして一般化してしまうなら、容易にトランス女性の身体にまで拡張され、現実的ではないトランスフォビックな懸念として表明されてしまうことになるでしょう。

 このように考えるなら、「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのかわかるのではないでしょうか。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。性暴力の問題は、トランスの問題とは独立に考えられなくてはならなりません。

 さて、私は「身体の意味づけ」の問題も、やはりフェミニズムにとって重要な関心事であったはずだと思います。「男体」への意味づけは、性暴力への恐れを表明するフェミニストのみがもっぱらおこなっていることではありません。それどころかむしろ、それは挿入中心主義的なセックス観や、性暴力すら相手に快楽を与えて支配する手段として描かれる男性向けポルノなど、さまざまなところで少しずつ違った仕方で広範におこなわれていて、それらはまさにフェミニズムが批判してきたものです。

 同じ事は「女体」についても言えるように思います。「女体」への規範的な意味づけは、フェミニズムにとって重要な批判対象でした。

 まず、「妊娠・出産をする身体」は公的領域においてマイナスの意味づけをされてきました。「生理があって感情的」「出産で休むから労働力として劣る」等々。実際には公的領域は私的領域における女性の家事労働がなければ成立しないものであるにもかかわらず。

 またポルノグラフィやセックスをめぐる議論も典型的です。ちょうど「ペニス」が「侵襲の主体」として意味づけられることの裏返しのように、「胸」や「尻」に還元された「女体」が「欲望の客体」として意味づけられることをフェミニズムは批判してきました。「女性は挿入によってこそ快楽を得る」というような考え方についても同様です*5

 他方で、そのようにして「女体」が意味づけられ貶められているからこそ、フェミニズムにとって女性の身体を意味づけなおすことこそ連帯と政治のよりどころだと考えられることもありました。妊娠・出産・育児こそ女性の価値であり保護すべきだと考えた母性主義フェミニズムや、妊娠・出産する女性の身体に「自然性」という価値を見いだすエコロジカルフェミニズムなどはその代表的な例です。

 しかし、たとえば健康で妊娠・出産する身体を女性の本質と考え、そこに価値があると意味づけてしまえば、妊娠・出産しない/できない身体をもった女性や、障害をもった女性の身体は劣ったものとして意味づけられてしまうことになります。それゆえ、女性の身体になにがしかの本質を見いだしてそこに価値を意味づけるようなタイプのフェミニズムは、今日では批判の対象となることが多いと言ってよいでしょう。

 こうして、「男体」についても「女体」についても、フェミニズムはその意味づけに部分的には関わる要素をもちつつ、それを全面化して規範化することには批判的であるような態度を(全体としてみれば)取ってきたように思います。そしてそうであるなら、ここにはベッチャーが言っていたような、身体部位のさまざまな再コード化をおこなうトランスの問題と重なるところがあるのではないでしょうか。つまり、身体への意味づけを多様化していくことは、フェミニズムの関心事でもありトランスの関心事でもあることができるのではないでしょうか。

おわりに

 以上、ベッチャーの議論に絡めながら、外見やふるまいの規範性、そして身体への意味づけの規範性が、フェミニズムとトランス双方の問題とかかわるのではないかということを考えてみました。こうした規範性の問題は、ツイッター上でも「フェミニスト」がたくさん議論してきたことだと思います。それらの問題がトランスの問題とも重なっているところがあるとすれば、トランスフォビックな語り方をやめるということは、フェミニズムの問題に対する思考を一時停止することではなくて、むしろそれを先に進めることでもあるはずではないかと、私は思うのです。

*1:ettcher, Talia Mae (2017) “Trans 101,” in Halwani, R. et al. eds., The Philosophy of Sex: Contemporary Readings (7th edition), Rowman & Limited.

*2:自身のジェンダー表現と社会的に期待されるそれとが一致しない人々。「ジェンダー表現」とは、ベッチャーの解説では「男性的もしくは女性的とされる感じ方、考え方、話し方、振る舞い方、自己表現の仕方」のこと。

*3:裸にした上で口や中や肛門、ヴァギナの中まで調べることもある所持品検査

*4:身体部位の意味づけをしなおすこと。たとえばトランス女性のペニスを「トランス・クリトリス」と呼んだりするような例が紹介されている。

*5:ツイッター上でも、たとえば「痛いだけ(どころか傷害にさえなっている)女性器への愛撫」を「気持ちよいはず」と思っている男性への女性たちの怒りがたくさん目に入ります。この「気持ちよいはず」という考えには、女性身体への一定の意味づけがあるでしょう。

フェミニズムが「男並み平等」を求めるものでなくなった理由

はじめに

 先日、広辞苑の「フェミニズム」の項目が新しくなったというニュースがありました。以前は「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想。女権拡張論」という説明だったのが、最新の第7版では「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想。女権拡張論。」という説明になったそうです。「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする」が「性差別からの解放と両性の平等とを目指す」に変わっています。「平等」という文言が入ったのは、明日少女隊というグループの活動の成果であり、敬意を表したいと思います。
 けれど個人的には、「平等」という言葉が入ることでフェミニズムのイメージが変わるかというと、必ずしもそんなことないのではないかという気もしています。確かに「女権拡張」などは悪いイメージを持たれやすい言葉かもしれませんが、それは結局「女権拡張」という表現が何を意味しているのかについて共通の了解がないということでしょう。そしてそのことは、実は「平等」という表現についても同じようにあてはまります*1。いったい「平等」ということで私たちは具体的にどんな状態をイメージしたらよいのか、このこと自体、フェミニズムにとっては難しい問いであり続けてきたし、今でもそうだと思うのです。
 この点、フェミニズムはさまざまに展開している思想なので、「平等とはどういうことか」について、フェミニズムを代表するようなひとつの説明があるようには思えません。けれど、「平等とはどういうことではないか」については、おおむね「合意事項」といってよさそうなことがあります。それは、フェミニズムは「男並み平等」を求めるものではない、という考えです。ここでは、この考えがどのように出てきた、どういうものなのかについて簡単に説明することで、「平等」とは何かという問題が今でも解決済みではなく、私たちが考えるべき課題であり続けているということを述べてみたいと思います。
 なお、字が小さくなっている次の節は、なんでこんなことを書こうと思ったかというローカルなコンテクストなので、twitterでのやりとりを見ていた方以外は飛ばしてくださって構いません。直接次々節の「平等か差異か」に進んでください。

「人権を求めるのに性別は関係ない」?

ネットに溢れるフェミニズム批判をウォッチするという不健全な趣味を持っていると色々なフェミニズム批判を目にするのですが、つい最近、「フェミニズムというのは他称なので、フェミニストを自称する人は皆間違っている」という主張を見かけました。

https://togetter.com/li/1194426
https://togetter.com/li/1195391
https://togetter.com/li/1196176

 正直何を言っているのかよくわからないところも多いのですが、どうやら「フェミニズムの起源はフランス革命後に女性に権利が与えられなかったことに憤った人たちの思想・運動であり、それは性別にかかわりない人権を求める思想・運動なのだから、「フェミ」ニズムを自称して「女性の」権利を求めるなどというのは起源の精神を踏みにじっている」という主張のようです。

 この主張自体がおかしなことは比較的明白です。仮に(学術的な細かな議論はさしあたり無視して)フェミニズムの起源を「性別にかかわりなく人権を求める思想・運動」だとまとめるとしましょう。そして、そこから200年さまざまに展開したフェミニズム思想が、起源とは違ったものになっているとしましょう。しかしこれらのことを認めても、そこから「起源の思想のほうが正しい」という主張は導けません。カレーライスの起源がインドの煮込み料理にあるからといって、「インド料理のレシピに従っていないのに「カレー」ライスを自称するのは間違いだ」という人がいたら私たちは偏屈な人だなと思うのではないでしょうか。カレーライスはカレーライスという料理として私たちの食文化に根付いており、そこで重要なのは私たちが日々レシピを工夫しながらそれを美味しく楽しんでいるという事実だからです。「起源に帰れ」ということに意味があるとしたら、元のレシピから逸脱することで味が不味くなったり、食文化が貧困になってしまっているような問題がある場合でしょう。同様に、仮に現代のフェミニズムが「起源」とは異なるものになっていたとしても、そのことはそれ自体で問題があると言えることではありません。だから「起源に帰れ」というのであれば、起源から逸れることでどんな問題が生じているのかを、現在の私たちが生きる人権文化に照らして具体的に語ることができなければならないのです(が、上の「自称フェミニズム批判」では「自称」への非難以外には具体的なことが何も語られません)。

 さて、「フェミニズムは自称するものではない」のようなおかしな主張はさておき、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言われると、ひょっとすると「そうかも?」と思う人がいるかもしれません。特にフェミニズムはその歴史の中で、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティの運動からの批判を受けてきたところもあるので、そうした歴史を知っている真面目な人ほど「女性の問題を中心に考えるのは視野が狭いのでは」と不安になってしまうかもしれません。
 この短い文章の目的は、「別にそんなことないよ」ということ、すなわちフェミニズムにとって性別が関係なくなることはないし、それにはもっともな理由があるし、そしてそのことは他のさまざまなマイノリティ問題との関係を考える上でも重要だと思うよ、ということを、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」ということの意味から考えておくことです。

平等か差異か

 一般的に、フェミニズムは第一波フェミニズムと第二波フェミニズムに分けられます。「第三波」のようなそれ以降の区分も最近は用いられることがありますが、分類の基準が少し違うのでここでは置いておきます。
 第一波フェミニズムは、大まかにいえば19世紀後半から起こった女性参政権獲得運動を指します。アメリカでは1869年にエリザベス・スタントンらが全国女性参政権協会という組織を作りました。イギリスでは1897年にミリセント・フォーセットらが女性参政権協会全国連合を、1903年にエメリン・パンクハーストらが女性社会政治連合を組織しています。後者は最近の映画「サフラジェット(邦題:未来を花束にして)」

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で描かれていましたね。
 それに対して第二波フェミズムというのは、1960年代中頃から起こったさまざまな女性解放運動の総称です。リベラル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムなど思想的特徴によっていくつかに区別され、主張の中身も第一波のようにおおまかにひとつにまとめることができない多様性を持っています。
 さて、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」という考えは、第二波以降のフェミニズム(特にラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム)の中で登場します。この主張は、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムの困難を指摘するものなので、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムがどのようなもので、そこにどんな困難があるのかを考えてみると、その主張の意味がわかりやすくなるでしょう。

「リベラルな」フェミニズム

 「男並み平等」を求めるというのは、要するに「男だけが持っているものを女にも渡すことで女を男と対等な位置に置け」と要求することです。そして「男並み平等」を求めるフェミニズムということで想定されているのは、第一波フェミニズムと、第二波フェミニズムの中のリベラル・フェミニズムです。女性参政権獲得運動が「男性が持っている権利を女性にも」という運動だというのはわかりやすいと思います。ではリベラル・フェミニズムはどうでしょうか。
 リベラル・フェミニズムのはしりは、専業主婦として夫と子どもの世話をする一見「幸せ」な家庭生活の中で、「女らしさ」に閉じ込められていた白人中産階級の主婦の憂鬱を描いてベストセラーとなったベティ・フリーダンの『フェミニン・ミスティーク(邦題:新しい女性の創造)』です。

新しい女性の創造

新しい女性の創造

フリーダンは1966年にできた全米女性機構(NOW)という組織の初代代表となります。NOWはまたたくまに会員を増やし、女性を家庭から解放し、政治・雇用・教育といった公的領域における平等な権利を求める運動をおこなっていきました。
 こうしたリベラル・フェミニズムの運動は、基本的には、政治や経済という公的領域に女性も対等に参加できるように、というものでした。その意味で、それまで男性が持っていた「公的領域において平等に扱われる権利」を女性にも与え、それによって女性も公的領域で男性がそうであるのと同じように活躍できることを求める、という「男並み平等」を求める思想・運動だったと考えられます*2

「等しきものは等しく」?

 では、こうした考え方はどこに問題があるのでしょうか。このことは「そもそも公的領域における平等(女性参政権や雇用の平等)をどんな理由で要求することができるか」について、ちょっと真面目に考えてみるとわかります。ここで「理由なんて『同じ人間だから』で十分でしょう」と思った方、ちょっと考えが甘いです。「平等」というのは簡単に言えば「等しいものは等しく扱いましょう」という考えなので、等しくないものに差をつけることは必ずしも不平等にはなりません。試験の点数が60点の学生が合格になるのに50点の学生が不合格になることや、時給1000円のアルバイトで8時間働いた人が8000円もらえるのに5時間働いた人が5000円しかもらえないのは「不平等」だとは言われませんよね。それは、差をつけるかどうかという点で考慮すべき対象が「等しくない」からです。
 では「参政権」はどうでしょうか。今の私たちが「性別関係なく参政権があるのが平等」だと思うのは、「政治に携わる」という観点から見て男女に差が無いという考えをもっているからです。けれど、女性に参政権がなかった時代、多くの人はそう考えていませんでした。「女性の本分は家庭での家事育児にある」「女性は本来慎み深い存在なので政治には向かない」、そう言われていました。だから、女性に参政権がないことは、等しくないものに差をつけることであり、不平等だとは考えられなかったのです。この状況で「女性にも参政権を」というのはとても大変です。だから第一波フェミニズムの中では、参政権や教育の権利を求めるのに「女性のもつ母性こそが政治には必要」「良き母となるために女性には教育が必要」という言い方もしばしばされたのでした。
 同様の問題は、リベラル・フェミニズムが求めた「雇用の平等」にもつきまといます。「女性も男性と同じように働く権利がある」といえるためには「働くという観点から見て男女には差が無い」という考えが必要です。けれど、多くの女性には妊娠・出産というライフイベントがあるのは事実です。だから少なくともその点に限れば、文字どおりの意味で「男性と同じように働く」ことは、多くの女性にはできません。そうすると「女性は妊娠・出産で休業したり離職したりするから雇用しない」「休業保険から妊娠による休業は外す」といったことを「不平等だ」と言うことが難しくなってしまいます(ちなみに今でも「女性は出産するので完全な平等は無理だと思う」というコメントを書いてくる学生、たくさんいます。たいてい男子学生です)。

「男並み平等」から「公私二元論の批判」へ

 ここでフェミニズムは難しい立場に立たされます。平等を要求するには「差が無い」と言わなければなりませんが、結局のところ男女に身体の違いがあるのは事実です。けれど「違いがある」と認めれば「差をつける」ことも認めざるを得ないように思われます。いったいどうしたらよいのでしょうか。
 フェミニズムの中ではこれは「平等か差異か」問題と呼ばれました。あくまで「男女に差は無い、あっても大きなものではない」と主張することで「平等」を求めるべきなのか(平等派)、逆に差があることを認めた上で、ちょうど第一波フェミニズムの中にあったように「男性と女性にはそれぞれ違う役割があって、その役割を果たすためにこそ平等が必要なんです」と言うべきなのか(差異派)。これを読んでいるみなさんはどのように考えるでしょうか。
 さて、ここでようやく「フェミニズムは『男並み平等』を求めるのではない」という考えについてです。実はこの考えが示しているのは、一言でまとめれば、「平等か差異か」という問いの前提自体を批判していく、という方向性です。「公的領域に女性も参加する権利を持つことが平等」という発想でいる限り、どこかで「でもやっぱり男性と女性は違うのでは」という「平等か差異か」問題にぶつかります。けれど、そんな問題を産みだしてしまうような「平等」についての考え方が、そもそもおかしいのではないか*3。「平等」についての考え方に歪みがあるのではないか。そう考えて、「男並み平等」の発想を批判していった議論の代表格が、第二波フェミニズムの「公私二元論」批判でした。

公私二元論の批判

 「公私二元論」とは、フェミニズムの議論の文脈では、「公的領域(政治・経済)/私的領域(家庭)」という区別のもとで、公的領域での平等を重視する考え方のことを指します。「男並み平等」はまさにそういう考え方で、「平等か差異か」の問題はそこから生まれてくるものでした。それに対して「公私二元論」批判の基本的な考え方は次のようなものです。そもそも「公的領域/私的領域」という区別は、前者を男性に、後者を女性に割り振るような考え方のもとで成立している。だから、その割り振り方をそのままにしておいて、「男性」基準でできあがっている「公的領域」に女性を参加させ、そこで「男性と差が無い」ことを証明せよと女性に求めるという「平等」の問題設定自体が、そもそもおかしいのではないか。

マルクス主義フェミニズムと家事労働論

 具体的問題にもとづいて考えるのがよいでしょう。たとえばマルクス主義フェミニズムが問題にしたのは「家事労働」でした。マルクス主義フェミニズムというのは、名前のとおりマルクス主義の立場から、女性の抑圧の物質的(モノの生産にかかわる)基盤を理論化しようとした思想です。日本でもっとも有名であろうフェミニスト上野千鶴子さんも、元々はマルクス主義フェミニズムの理論家ですね。

 「労働」といって多くの人が思い浮かべるのは、モノを作って売ったり、あるいは誰かに雇われて働いて賃金をもらったりすることでしょう。では、女性が家庭でやっている「家事」は果たして「労働」なのでしょうか。マルクス主義フェミニズムは「労働だ」と主張しました。それは直接売るモノを作ったり、誰かに雇われておこなっていることではないけれど、売るモノを作ったり企業につとめたりする男性労働者たちの日々の生活(食事や身の周りの世話)を支え、次世代の労働力(子ども)を育てているという点において、「労働力を作り出す労働」なのだと。マリアローザ・ダラコスタというイタリアのマルクス主義フェミニストは、『家事労働に賃金を』とまで主張しました。
家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

 実際に賃金を支払うべきかどうかはともあれ、「家事は労働だ」というこの考えの重要性は、「男性労働者が外で働く」ことが、実は家庭で女性がやっていることに依存して成立しているものであることを示した点にあります。ご飯を作って栄養摂取をしたり、掃除をして住環境を快適に保ったり、洗濯して清潔な衣服を用意したりする活動なしには、「朝起きて働きに行って場合によっては遅くまで働いて帰ってきてまた次の日働きに行く」ことを(少なくとも健康的な形で)続けることは難しいでしょう。次世代の育成が「家事労働」なしに不可能なのは言うまでもありません。
 さて、男性の労働が女性の家庭での「労働」に依存して成立しているとするならば、「女性も男性と同じように働けるように雇用の平等を求める」ことが、それだけではうまくいかないことはあきらかではないでしょうか。だって、女性が男性と同じように賃金労働をできるようになったとして、そこでは賃金労働を成立させるのに必要な「家事労働」は誰がするのでしょうか。「家事育児は女がやること」とされている社会では、当然女性がやるのです。そうすると女性は、賃金労働と家事労働という二重の労働を背負うことになり、結局賃金労働の領域では不利な立場に置かれたままになってしまいます*4。この問題をどうにかしようと思うなら、単なる「雇用の平等」ではなく、「女性が家事労働をやっているがゆえに成立する男性の働き方を前提とした雇用のあり方」自体を変えていかなくてはなりません。そのためには、「男は仕事、女は家事育児」という性別分業規範を変えていかなければなりません。要するに、「公私」の線引きのありかたが変わらなければならないのです。

ラディカル・フェミニズムと性支配論

 「公的領域における平等」という問題設定の歪みをあきらかにしたのが家事労働論だとすれば、その問題設定では「私的領域がすでに不平等であることが見落とされる」という方向性で公私二元論批判を展開したのがラディカル・フェミニズムの性支配論でした。ラディカル・フェミニズムというのは、NOWよりも少しあとで、公民権運動やベトナム反戦運動などに参加していた女性たちが左翼運動の中の性差別に抗議する中で起こした運動です。思想的には女性の抑圧の原因を男性と女性の関係のありかたそのものに求めた点に特徴があります。比較的小規模ないくつもの団体がそれぞれ活動をおこない、話し合いを通じて女性たち自身も身につけている支配的な性別規範を脱して新たなアイデンティティと人間関係を確立しようとする「コンシャスネス・レイジング(意識変革・意識高揚)」運動などがおこなわれました。「家父長制」という、フェミニズム理論にとって重要な概念もラディカル・フェミニズムの中で生まれたもので、ケイト・ミレットが『性の政治学』の中で、支配的な男女関係のありかたにつけた名前です。

性の政治学

性の政治学

ラディカル・フェミニズムは男女関係の中に支配関係があると考えるので、しばしば男女の差異を極大化する「差異派」の主張に引っ張られることもありましたが、「私的な」関係の中の不平等を訴える視点は、DV、セクハラ、性暴力などの問題の告発をとおして、公私二元論への鋭い批判を産み出していきました。
 女性の抑圧の根本が支配的な男女関係にあると考えると、一般にプライベートなものだとみなされる男女間の性関係はきわめて「政治的」な問題を含むものに見えてきます。たとえばDVについて考えてみましょう。DVは家庭という私的領域で、夫婦関係という人間関係の中で起こります。ところが、近代法の伝統的な枠組みでは、私的領域は各人の「自由な」領域であり、法が立ち入るべきではない領域だと考えられていました。特に家庭については「法は家庭に入らず」という格言もあるくらいです。そうすると、たくさんの女性が夫から殴られていても、「法はプライバシーには介入しないよ」と、ほうっておかれることになってしまいます。女性のほうが暴力の被害と危険にさらされているという「不平等」は、「公的領域における平等」という問題設定では捉えられないどころか、「私的領域は各人の自由な領域だから」ということで積極的に放置されすらされてしまうのです(たとえばキャサリン・マッキノンは『フェミニズム・アンモディファイド(邦題:フェミニズム表現の自由)』の中で、中絶、レイプ、DVの問題に触れながら「プライバシーの権利」がいかに不平等を覆い隠すかについて論じています)。
フェミニズムと表現の自由

フェミニズムと表現の自由

「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムの有名なスローガンは、このように、何が公的な問題で何がそうではないのかという線引きのうちに「女性の問題」を軽視する視点が含まれているのだということを訴えるものでした。
 こうした問題をどうにかしようと思うならは、やはり「公私」の線引き自体が見直されなければなりません。DV被害者を救うためには、法を家庭という私的領域に介入させなければならず、そのためには女性が被っている被害がもはや「プライベートな問題」ではないことを認めさせなければならず、そのためには結局「夫婦関係」についての社会の考え方を変えることが必要になるのです。

「男並み」ではない「平等」に向けて

 こうして、「公的領域における平等」を求めるのでは、一方で公的領域自体が男性に有利なように作られていることを見逃し、他方で私的領域において生じている不平等を見逃してしまうという点において、結局のところ「平等」を達成することはできそうもありません。似たようなことは、実はセクハラ、性暴力、中絶の権利、育児や介護などのケア労働、ポルノグラフィ、性労働など、さまざまな問題について考えることができ、実際第二波以降のフェミニズムでは中心的なトピックとなっていきました*5
 では、「男並み平等」を求めるのでないとしたら、フェミニズムが求める「平等」は具体的にはどのようなものなのでしょうか。最初に述べたとおり、これはとても難しい問題で、教科書的に解説できるような答えはありません。ただ、歴史から私たちが確実に学ぶことができることが二つあります。ひとつは、「男性と同じように女性も政治や経済に参加する」「プライベートな関係では自由を尊重する」といったイメージには危うさがあり、私たちはもう単純にそのイメージには頼れないということ。そしてもう一つは、その危うさに敏感になるためには、「すべての人に人権を」というようなお題目で満足するのではなく、むしろ「すべての人に人権を」をというときにこそ、そこに偏った前提がないかを偏った前提によって不利な立場に置かれる人の視点で考えること、そうした人たちの言葉には特に耳を傾けるべき理由があると知っておくことが必要だということです。

「固有の経験」の重要さ

 このことは、フェミニズムの中にある偏りや、他のマイノリティ問題との関係を考える上でも重要な意味を持ちます。「雇用の平等を」と言えるのは白人中産階級の専門職の女性で、そこには低賃金で(しばしば白人女性の労働市場参加を支えるハウスメイドとして)働く非白人女性の視点はありませんでした。同様に「男女の性関係に不平等がある」と言うときの視点は、あくまで異性愛の女性のものでした。要するに、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティ運動からの批判は、フェミニズムが「平等」を語るとき、その前提に偏りがあるのではないかという問いを突きつけるものだったのです。
 だから、「平等」について真面目に語ろうとするなら、重要なのは「特定の(とりわけ歴史的に抑圧されてきた)属性を持つ立場の人の経験」に十分に敏感であろうとすることで、簡単に「すべての人にとって…」と語ることは逆に危険です。実際、第二波の後のフェミニズムが思想的に取り組んでいるのは、人種、階級、セクシュアリティ、文化、宗教などの観点からの女性の多様性に配慮しつつ、同時に「女性の問題」を語ることだと言えるでしょう。もちろん性や人種や階級やセクシュアリティが同じでも、皆が同じ経験を持つわけではありません。けれどだからといってそうした属性について考えるのをやめてしまえば、現在の「平等」についての考え方のどこに偏りがあるのかを考える手掛かりは失われてしまいます。だから、「平等」ってどういうことだろうと考えるのは、「特定の人にとって」と「すべてのひとにとって」のあいだを、いったりきたりしながら考えることなのです。

制度的浸透

 他方、現在では制度的にも、DVへの介入、セクシュアル・ハラスメントの禁止、強姦法の改正、ワーク・ライフ・バランス、(女性の労働参加と男性の家事育児参加のための)ポジティブ・アクションなど、単なる「公的領域における差別の禁止」を超えた、さまざまな政策が現実におこなわれるようになっています。
 もちろん、政策の水準では、既存の法的な枠組みとの一貫性は鋭く問題になります。たとえば女性の政治・経済参加を促すためのポジティブ・アクションをおこなうには、どのような取り組みなら男性に対する差別にならないかを考えなければなりません。DVの被害を防ぐために加害者が住居に近づくことを禁止することは、加害者の財産権と衝突します。性暴力裁判において女性が二次被害にあわないよう証拠に制限をかけることは、被告人が公正な裁判を受ける権利と衝突するかもしれません。また、ポルノグラフィと性表現規制の問題は、比較的既存の枠組みとの調整がまだあまりうまくいっていないトピックでしょう。
 それでも、そうした政策がまったくなかった時代に戻ることはもはや考えられない以上、私たちはすでに第二波フェミニズムの問題提起がかなりの程度まで「常識」となった社会を生きており、その中で「平等」ってどういうことだろう、と考え続けているのです*6

おわりに

 さて、ここまでくれば、「平等である」こと(同様に「自由である」「人権が守られている」といったこと)というのがどういうことなのか、実のところまったく解決済みの問題ではないということがわかるのではないでしょうか。私たちはまだ当分のあいだ(あるいは今後もずっと)、自由や平等といった概念を頼りにしつつも、同時にいま自由や平等だと考えられていることの中にある偏りを指摘しながら、自由や平等がどういうものか自体を更新する作業をしていかざるをえないでしょう。そしてそのためには、性別はもちろん、人種、階級、エスニシティセクシュアリティといったさまざまな属性に「関係のある」問題をこそ、考えなければならないのです。

ブックガイド

 フェミニズムのおおまかな歴史や分類について知りたい、という人にはさしあたり以下を。

フェミニズム (ワードマップ)

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争点・フェミニズム

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アメリカの第二波フェミニズム―一九六〇年代から現在まで

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 ここでは日本独自の事情については触れられませんでしたが、日本における第二波フェミニズムはなんといっても1970年代のウーマンリブです。その後、85年に均等法、99年に男女共同参画社会基本法、2001年にDV防止法ができています。ただ、こうした流れと日本におけるフェミニズム運動の関係をどう捉えるべきかについてはまた別の議論が必要でしょう。
リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

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均等法をつくる

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女性たちが変えたDV法―国会が「当事者」に門を開いた365日

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ネットで読めるものには牟田さんの論文もありますね。
牟田和恵,2006,「フェミニズムの歴史からみる社会運動の可能性」『社会学評論』57(2).

 概説じゃなくてフェミニズム思想書・理論書を読んでみたい!でも大変そうだから読みたくない!という人にはこれがおすすめです。1冊で50冊も読んだ気になれます。

フェミニズムの名著50

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*1:たとえば、「男女平等」という表現が日本社会でいかに受け入れられづらいものかは、「雇用平等法」が「雇用機会均等法」になったことや、英語だとgender equality lawすなわち「男女平等法」という名前の法律が日本語だと「男女共同参画社会基本法」という複雑な名前で呼ばれていることなどからも察することができるでしょう。

*2:もちろん実際には、第一波フェミニズムの思想もリベラル・フェミニズムの思想もさまざまな要素を含んでおり、あとで見るようなマルクス主義フェミニズムやラディカル・フェミニズムと通底するような考え方も見られます。その意味ではフェミニズムは最初から「男並み平等」を求める思想ではなかったとも言えるかもしれません。また、リベラル・フェミニズムについても、80年代以降はジョン・ロールズ以降のいわゆる平等主義的なリベラリズムの視点を取り入れることで、第二波フェミニズムの問題提起を包摂する理論が模索されています。ですから、ここでの区別はあくまで便宜的なものだと考えておいてください。

*3:「平等か差異か」という問いへの批判として日本で有名な論文に、江原由美子「性別カテゴリーと平等要求」があります。『フェミニズムと権力作用』という本に入っています。

フェミニズムと権力作用

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*4:これは「仕事と子育ての両立」を進めようとしてきた日本が、ずっと抱えてきた問題でもありました。萩原久美子さんの『迷走する両立視点』は、男性基準の働き方のもとで「仕事も家庭も」と女性が求められることの苦しさと理不尽さを、生々しく伝えています。

迷走する両立支援―いま、子どもをもって働くということ

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*5:たとえばセクハラは、男性労働者がデフォルトの職場では女性労働者の役割は男性を楽しませる「華」として地位も賃金も低いものとなり、その上下関係のもとで生じる性的侵害が「個人的な恋愛のトラブル」だとされてしまうという、複合的な問題として見えてくるでしょう

セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン

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*6:DVやセクハラ、性暴力については最近は男性の被害者の問題も認識されるようになってきています。だから「セクハラやDVは人権問題だし、フェミニズムとか関係ない」と言いたくなる人もいるかもしれません。けれど、いまの私たちが「セクハラやDVは人権問題だ」と思えるのは、疑いなく、「私的な問題」とされていた事柄のなかに公的な問題があるということを訴えたフェミニズム運動の成果の上でのことです。だから、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言ってフェミニズムを批判するのは、自分がフェミニズムの成果にタダ乗りしていることに気づかない滑稽なふるまいなのです。