かのこちゃんとマドレーヌ夫人

徳島で人が通らないような道で迷いかけたとき犬が先導してくれたことがありました。まいったなと悩んでるこちらを一瞥したあとその犬が歩きはじめ、その犬についていかねばならぬような気になってついてゆくと目的地にたどり着きました。なにかエサになるようなものがあればよかったのですが手持ちが無く「ありがとう」と声を掛けると尻尾をふってそのまま立ち去りました。その場にひとりしかいなかったのでうそではないことを証明する手だてはないのだけど、動物というのは人間と意思疎通できるのかな、と気がついた強烈な経験です。そういう経験があったので万城目学さんの「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」を読みはじめたとき「(猫である)マドレーヌ夫人が話す外国語」という表現や、かのこちゃんのお父さんがかのこちゃんに「一頭くらい人の言葉がわかる鹿が居てもおかしくない」と云うのは、そういうことあるよなあー、と何の疑問も持たずにいました。
詳細は本を読んでいただくとして老雄犬が放浪雌猫を受け入れて互いの言葉が理解しつつ、文中の言葉を借りれば「知恵が啓かれたかのこちゃん」が言葉を覚えはじめ他人と意思疎通を活発に行いはじめたことで話が展開してゆきます。言語を習得することや意思疎通ができることはとても大切なことでときとして楽しいこともありつつ、他者と意思疎通できたたことによって他者が居なくなったときその喪失感もでかいものの、他者と意思疎通ができた記憶があるからこそ前向きになれるんだよなあ、ということを(文字にしてしまえば意味不明なんだけど)読んでゆくうちに理解して、内容が腑に落ちました。
病院の待ち時間に読むつもりで持参して、途中で呼ばれちまったので続きが気になりながら検査を受け、会計待ちの時間やバスの中でも読み耽ってました。最初のほうははやめについてしまって検査室の長いすに座ってる状態で読んでいたのですが、かのこちゃんと友達のすずちゃんが赤毛のアンにでてくるティーパーティをまねようとしてしっかりとした大人の雰囲気を出すために「グッドでござる」とか「祝着至極にござりまする」と語り合うくだりはなんだか妙にリアリティがあって笑いがこみあげてきて声を殺してこらえるのに必死で(美中年ではないおっさんが文庫本を手に肩を震わせて笑いをこらえる姿をご想像ください)傍からみると変なやつにみえたはずで、はてな今週のお題が「読書の秋」なんすけど読書と秋がなぜ結びつくかよくわかっていないものの、今秋読んだ「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」は検査室の前で本を読む本ではなかったかもしれません。でもページを開く前まで内容ってわからなかったのでどうしようもなかったのですが。